トロとまったり・tripのページ(岡山城 その1)

岡山県 岡山城

おかやまけん おかやまじょう

■岡山城(別名=烏城)
入場料金=大人300円(後楽園等共通券あり)
開館時間=9時〜17時半(入城は17時まで)
休館日=12月29日〜31日・特別展開催日前後
駐車場=近辺の有料駐車場

2004/12/28現在

住所=岡山市丸の内2-3-1
(この時は)備前市方面から国道2号線を岡山市街地方面へ走り、県道402号を進み川(新鶴見橋)を渡って2つ目の信号を左折。 そのまま進んで岡山美術館前を過ぎて、城下交差点を右折。すぐ右の車線に地下駐車場(有料)があって、そこに駐車した。 近場だと城下交差点を左折して少しすると、左側にあった。 その後は石山公園の中を通って、右方面へ歩き、右側に岡山城がある。

岡山城

■岡山城の沿革…備前の国邑久から起った宇喜田直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして、城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋。 それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本城として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎を作った。 その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作の他に備中の内の高梁川以東をも加え、57万石を超える大領主となった。 ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落成するに及んで、城普請は一段落した。 これがこの地に豪壮極まりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸等が城域を画し、近世城下町の骨格が出来上がったのである。 (…ちなみに、天守閣の外壁の下見板が黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏の濡れ羽色によく似ていた為「烏城」の別名がある。) 宇喜田秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。 その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城僅か2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。 その後姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏31万5千石の時代が続き明治維新におよんだ。(案内板より)

月見橋
カモ
笠井信一像

【右】大正3年(1914)の岡山県知事。

廊下門&小納戸櫓下の石垣

■廊下門…表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。 (案内板より)
■小納戸櫓下の石垣…池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。 一帯の石垣の石材は犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、丸の中にプラス、 Lの下に線等の刻印をもつ石がある。(岡山市教育委員会の案内板より)

表書院(中段)の工事

月見櫓

【左】月見櫓の鬼瓦。池田家の紋章の止まり揚羽(蝶)

月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の(表書院跡)北西角を固める隅櫓で、 第5代藩主池田忠雄(ただかつ)により城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1615〜32)に建てられた。 構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側からは二層の望楼型、城内(南東)側からは三層の層塔型。 地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっている。 一階は、西面に石落し(俯射装置)付きの唐破風造りの出格子窓、 北面に石落し付きの片流屋敷の出格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けている。 二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に空破風造りの武者窓、 北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしている。 その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、 二階の佇まいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっている。 (岡山市教育委員会・岡山さくらライオンズクラブの案内板より)

【左】廊下門付近からの月見櫓。下からは二層。土台石には銃眼石も。

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