トロとまったり・tripのページ(日出城 その1)

大分県 日出城

おおいたけん ひじじょう

■日出城(別名=暘谷(ようこく)城)=見学自由
■日出小学校、二の丸館
■城下公園
駐車場=無料駐車場(二の丸館の所)

2011/4/30現在

住所=速水郡日出町
この時は、国道213号を日出市街地へ進み、堀・堀交差点を左折。突き当たりを右折。 案内板に従って左折(日出町役場がある交差点)。次に右折すると、 正面に観光客用の駐車場がある。二の丸館や裏門櫓もここにある。

日出城

慶長6年(1601)日出藩初代藩主・木下延俊は、姫路より移封入国すると、 直ちに築城にかかり、翌年8月には大方の普請ができ入城した。 城の縄張りは、義兄の細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手、 穴生理右衛門(あのうりうえもん)が野面積みで築き、木材は鹿鳴越(かなごえ)の大木を用いたといわれる。 別名暘谷(ようこく)城と呼ばれ、3代藩主・木下俊長が中国古書「淮南子(えなんじ)」 より引用し、命名したといわれる。本丸には三層の天守閣をはじめ、二層の櫓5ヶ所・平櫓が築かれ、 これを中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え、外郭には武家屋敷や民家を取り入れた。 (案内板より・左上は日出町の案内板より・工事中の時の案内板より・下2枚は日出ライオンズクラブの案内板より)

龍泉寺 // 外大手門跡

【左】山門が、裏門らしい。
【真ん中】交差点の所が外大手門跡。
【右】外大手門跡から二の丸館までのクランク。

二の丸・二の丸館(観光用駐車場あり)

【左】観光案内所。パンフあり♪観光客用の駐車場があるので、安心して、見学が出来る(^^)
【右】城下かれい棲息地だけに、屋根の下にカレイがいた(^^) ちなみに、ここは二の丸だけど、本丸の裏門櫓が復元されている。ややこしい…(笑)

裏門櫓(復元)

【左&真ん中】二の丸館の所に本丸の裏門櫓が復元されている。ここの門を抜けると、本丸北側の堀跡へ。
【右】復元された裏門櫓付近から。写真の左側が本丸、右側が二の丸。

二の丸(日出中学校) // 到道館

【右】日出小学校の西側辺り。この時は、本丸を時計回りで見学し、到道館の前を通った。

安政5年(1858)日出藩15代藩主木下俊程(としのり)の命により、日出城二の丸に創立された藩校。 明治の廃藩に伴い閉校された。大分県に現存する唯一の藩校。(案内板より)

本丸・大手門跡

【左】小学校の校門奥の右側辺りが大手門跡。手前が、暘谷城址碑。裏側には、「慶長6年木下延俊築城」も。
【真ん中】本丸東側の堀跡から大手門方面を。
【右】大手門跡までの両側には、石垣塀が見られる(^^)

本丸北側の堀跡&鬼門櫓跡

【左】大手門跡側から。右奥が鬼門櫓跡。
【真ん中】大手門跡方面。
【右】木で隠れ気味の所が鬼門櫓跡。

在りし日の鬼門櫓の古写真。この時は、違う場所に復元中だった…(^^;) 確かに、小学校に建てられないよね…。

帆足萬里像

本丸北側の堀跡付近に立ち、他に滝廉太郎の像が置かれている。

江戸時代後期の儒学者・家老。 安永7年(1778)日出藩の家老・帆足通文(みちぶみ)の三男として生まれた。 14才で豊岡の儒学者・脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り、殆ど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。 経済、物理、医学、天文等の各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。 天保3年(1832)、13代藩主・木下俊敦(としあつ)に請われて家老職に就き、藩財政の再建にも力を尽くした。 嘉永5年(1852)、6月14日、多くの弟子に見守られて75歳の生涯を閉じた。 帆足萬里の代表的著書に、「窮理通(きゅうりつう)」「東潜夫論(とうせんぶろん)」などがある。 また、三浦梅園(ばいえん)(安芸)・広瀬淡窓(たんそう)(日田)とともに、豊後の三賢称される。(日出町の案内板より)

滝廉太郎像

説明板の下地に、荒城の月の楽譜が書かれていて、お洒落。

楽聖 瀧廉太郎…瀧家の初代は、日出藩初代藩主・木下延俊に召し抱えられて以来、 4代・5代・8代は日出藩の家老を務める等、上級武士の家柄だった。 廃藩置県後、廉太郎の父・吉弘は上京し、明治4年に大蔵省に勤め、 3年後には初代内務卿大久保利通の書記官となっている。 廉太郎は明治12年に東京で生まれ、15歳で東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学した。 当時在京の日出町出身者で作る「暘谷会」にも入会し、 明治34年(1901)3月には東京の萬安亭で廉太郎のドイツ留学壮行会が催された。 日出町の龍泉寺には瀧家の墓所があり、初代から10代にわたる先祖が29基の墓に眠っている。 また父の生誕地日出町を度々訪れている等、廉太郎は当地と縁の深い人物である。(日出町の案内板より)

裏門跡

日出小学校の東側の門の所が、裏門の桝形跡だけど、裏門櫓の石垣があるぐらいで、何も無い。 恐らく、門の奥に桝形があって、桝形の右側に、裏門があった…な〜んて、そんな感じかな(^^)

裏門櫓・時鐘

元禄8年(1695)日出藩3代藩主・木下俊長が鋳造させた釣鐘。 明治7年(1874)外大手門より裏門櫓跡に移された。(案内板より)

【左】裏門桝形横の裏門櫓跡。 【真ん中】横から。
【右】天守台を見学後、望遠で。さすがに近寄れないし(^^;) ちなみに、二の丸にある二の丸館(日出小学校の北側にある)に、裏門櫓が復元されている。

本丸東側の堀跡&石垣

【左】パノラマっぽく加工。左が天守台、右端が裏門櫓跡(時鐘)。手前が、堀跡。
【右】裏門櫓跡側から天守台方面。こんなに長く続く、格好いい石垣が見られるなんて! パノラマっぽく加工した写真は微妙だけど、凄かった〜♪

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