トロとまったり・tripのページ(杵築城 その1)

大分県 杵築城

おおいたけん きつきじょう

■杵築城(別名=木付城、臥牛城、台山城、勝山城)=300円
開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
■城山公園
駐車場=無料駐車場(城山公園)

2011/4/30現在

住所=杵築市杵築城山
この時は、大分自動車道 日出バイパスから 大分空港道路の杵築I.Cを下りて、案内に従って県道49号へ右折。 少し走って、県道49号へ左折。案内板に従って (大分銀行を過ぎたト字路)右折。進んで、左側の案内板に従い神社方面へ左折、 鳥居をくぐって、青えん神社の奥へ進むと、城山公園の駐車場がある。

杵築城

建長2年(1250)、大友親秀(2代)の六男親重は、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に封ぜられ、 地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城し、竹ノ尾城にいった。 木付氏4代頼直の時、城を現在地の城山に移築、応永元年(1394)9月竣工、木付城と名付けた。 木付城を別の名を台山城、臥牛城、勝山城とも呼ばれるが、台山とは、 八坂川高山川の合流地点に突出した台地に由来し、臥牛は、台山の地形が牛の寝た姿に似ている事による。 勝山城のいわれは、木付氏16代鎮直(しげなお)の時代、島津義弘軍の新納武蔵(にいろ むさし)守勢の攻城を受けたが、 天正15年(1587)2月、これを撃退勝利をおさめた武功に、あやかるものである。 さて文禄2年(1593)木付氏滅亡後、藩主の交代相次ぎ、正保2年(1645)能見松平英親が転封されてより、 明治に到るまで松平氏の治藩下に栄えた。杵築の地名は、正徳2年(1712)8月、3代藩主松平重休(しげやす)の時、 徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に、木付の文字が杵築と書かれた事による。(案内板より・絵図も)

城下町御案内櫓
青えん神社
駐車場(城山公園)

【左】青えん(竹冠の下に延)神社手前の櫓の中に、パンフあり♪
【真ん中】奥の鳥居をくぐって、公園の駐車場へ向かう。
【右】駐車場は(写真では広く見える?)、数台程度。でも、近いから便利♪ この時、丁度、空いててラッキーだった♪

駐車場付近
二郭へ
空堀?

【左】丁度、錦江橋が見えた(^^)
【真ん中】石段を上がって二郭へ。
【右】石段の横。空堀っぽい雰囲気。

二郭

広くて、遊具もある公園。親子連れやピクニックを楽しむ人達が見られた。
【右】シマウマ、目が分かりづらい…。

主郭

【左】二郭から主郭への模擬門。
【真ん中】内側から。
【右】石造物がズラリと並ぶ。←あえて見えない様に写した。

【左】杵築城復元記念碑。
【真ん中】模擬天守。木が邪魔だけど、この角度、好きだなぁ(^^)
【右】角度を変えて。

宮本武蔵 杵築(木付)に

【写真】天守の入り口横にある木付城址碑。

慶長17年(1612)関門海峡に浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った時、 この試合の検分役を務めたのは、細川藩筆頭家老で、杵築(木付)城代の松井興長であった。 決闘が終わって、門司城代・沼田延元の元にいた武蔵は、佐々木小次郎の門人達に命を狙われたので、 鉄砲組に護衛されて養父無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田家記に記されている。 「二天記」では松井興長は、無二斎の門人でありと記述されており、地元では、 武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。(杵築市観光協会の案内板より)

景色

【左】(パノラマっぽく加工)お色直し中の杵築大橋。 守江湾では、潮干狩りをしている人の姿が見えた(^^) ここは、カブトガニも生息しているみたい。
【右】左上の写真右側にある錦江橋。

【左】錦江橋の右付近の高台(=真ん中)が、南台武家屋敷。凄い崖だった。
【左下】杵築大橋の東側。ちなみに、手前の丸い物は、天守横にある展望台。 凄くこじんまりしたもので、少人数しか上がれない(^^;)
【下真ん中】北側の景色。
【右下】写真では分かりづらいけど、防波堤が海鼠壁になっていた♪

杵築城 2011.4.30記

駐車場から主郭まですぐなので、見学はあっという間。 天守下の展望台からも、天守からも眺めが凄く良くて、気持ちが良かった(^^) ゆっくり眺めていたので、見学時間は30分弱。

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