トロとまったり・tripのページ(松江城 その1)

島根県 松江城

しまねけん まつえじょう

※平成27年(2015)7月8日、国宝指定。(※案内板は見学時の物なので、HPの表記が違う場合があります。)
■松江城(別名=千鳥城)=550円
本丸開館時間=7時〜19時半(4/1〜9/30)、8時半〜17時(10/1〜3/31)
登閣時間=8時半〜18時半(4/1〜9/30)、8時半〜17時(10/1〜3/31)(※受付は30分前まで。)
休館日=年中無休
駐車場=近辺有料駐車場利用

2005/8/13現在

住所=松江市殿町1番地5
この時は鳥取方面から国道9号を松江方面へ進み、 松江城の看板案内通りに西津田東交差点を右へ進み、 国道485号との交差点を右折。そのまま485号を進んで橋を渡り、 3本目の信号を左折。(反対側は北公園)そのままずっと直進。 突き当りっぽくなった(信号を過ぎて)右に市営駐車場があり。

松江城

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全国に現存する12天守の1つで山陰では唯一の天守閣である。天守閣の大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目である。 慶長16年(1611)出雲の領主・堀尾茂助吉晴が5年の歳月をかけて完成した。 城主は堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる松平出羽守直政が信州松本から移封され、以来、松平氏10代234年間出雲18万6千石を領した。 明治8年、城内の建物は全部取り壊されたが天守閣だけは有志の奔走によって保存され、昭和25〜30年の解体修理を経て現在に至っている。 天守閣は、附櫓を加えた複合天守で、外観5層、内部は6階である。 壁の大部分は、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実践本意で安定感のある武骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な手法を見ることが出来る。(絵図等・案内板より)

大手木戸門跡&馬溜跡

【左】城址碑。 【真ん中】大手木戸門跡。 【右】馬溜の腰石垣。

■馬溜…一辺46mほどのほぼ正方形の平地である。 入口には大手柵門、右へ曲がると鯱を付けた壮大な大手門があった。 西側にある高さ13mの高い石垣や、南、東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1mほどの腰石垣による土塁でこの平場を四方から守っていた。 この入口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入への勢いを弱める機能と、 出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果していたようである。 発掘調査より、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内堀へ通じる石垣水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかった。 (島根県松江市の案内板より)

【左】馬溜跡から中櫓を。 【真ん中】馬溜跡から太鼓櫓を。 【右】2010/11/21撮影。

大手門跡

江戸時代の絵図・文献史料では、長さ8間(14.5m)、幅3間半(6.4m)の鯱を付けた大きな門で、防御の要となる門だった。 発掘調査によると、地下50cmの面に70〜80cmの角の加工した礎石と雨落溝が発見され、史料とよく合致している事がわかった。 また、黒瓦質の鯱の破片も出土した。(案内板より)

石垣の刻印&矢穴

松江城の石垣は、打込はぎといって石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方が殆どで、 慶長年間に築かれた城によく見られる。又、自然石やその割石を積んだ野面積や石を全面加工した切込はぎも一部に見られる。 ここの(↑上の真ん中の写真。)石垣台にはよく見ると分銅の形をした記号がのみでたくさん刻まれている。 これは松江城を築いた堀尾家の紋。 また、二之丸下ノ段の西側石垣にも△印などたくさんの刻印を見つける事が出来る。 刻印は、工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられている。 (案内板より)

いろいろな刻印がある。阿部晴明まで!見つけるとワクワクする。石垣にも歴史あり(^^)

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