【高天神城 その2】

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的場曲輪跡 的場曲輪から下へ 本丸の下
(左)本丸西側。  (真ん中)ここを下りて鐘曲輪へ。虎口ではないのかな。  (右)鐘曲輪付近から本丸の土塁を。
鐘曲輪 井戸曲輪
(左)本丸(写真右)、搦手(案内板の左)、 井戸曲輪(写真手前)の分岐にある曲輪で、1段低くなっていた。
(真ん中)井戸曲輪から鐘曲輪を。低いのが分かるかな…(^^;)  (右)正面にかな井戸。ここの狛犬は牛さん(^^)
下には 袖曲輪
井戸曲輪から西の丸へ行かず、搦手道を見下ろしたりしつつ二の丸方面へ。 (真ん中)ここから上ると袖曲輪だった。
二の丸&袖曲輪
(左)西の丸(写真左)下の二の丸。 (真ん中)振り返って。左=袖曲輪。右=二の丸。 (右)堂の尾曲輪との堀切。
袖曲輪と堂の尾曲輪との堀切
(左)堀切から。凄い!左=堂の尾曲輪。右=袖曲輪。 (真ん中)反対側から。 (右)堂の尾曲輪から袖曲輪。
堂の尾曲輪
天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、 二の丸主将本間八郎三郎氏清、部下300騎を率いて 此所の物見櫓に上がり、城兵を指揮した。 同日卯の刻(朝6時)武田方穴山梅雪の部下西島 七郎右ェ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、 鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、 本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を 以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清、兄に代り 櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を 撃たれ即死した。行年26歳であった。 墓碑は、後裔本間惣兵衛が元文2年(1737)に建てた ものである。(案内板より)
(左)袖曲輪から堀切越しに。 (真ん中)北西へのびる堂の尾曲輪。 (右)堂の尾曲輪を北西へ進むと堀切が。
横堀
(左)堂の尾曲輪から二の丸へ戻りながら見た横堀。長く長く続く♪ (真ん中&右)空堀の標柱も立っていた。
西の丸
井戸曲輪から石段を上がって、高天神社の立つ西の丸へ。 (真ん中)裏側へ回って馬場へ…。 (右)西の丸の土塁。
西の丸ととの堀切
(左)西の丸から馬場方面。 (真ん中)尾根伝いに攻め寄せる敵兵を防ぐ為の切割。 (右)馬場から西の丸方面。
馬場・馬場平
■甚五郎抜け道… 天正9年3月落城の時、23日早朝、 軍監横田甚五郎尹松本国の武田勝頼に 落城の模様を報告する為、馬を馳せて、 是より西方約1千米の尾根続きの険路を辿って 脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。 この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。 (案内板より)
  (左&真ん中)眺めはいいけれど、ちょっとガスってる感じ。 (右)甚五郎抜け道。
三日月井戸
天正2年7月より籠城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと 水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極僅かながらも 岸壁から染み出る垂れ水が絶える事が無い。(案内板より) (左)鐘曲輪へ戻り、北側の道を下りる。 (真ん中)隠れるようにある。 (右)確かに三日月。中には金魚が泳いでいた(^^)
搦手へ
(左)三日月堀の横の石段を下りて…。 (真ん中)地表が凄いなぁ…と見つつ。 (右)二の丸を見上げながら搦手門へ。
搦手門跡 高天神城跡碑 高天神社の鳥居
■搦手門…城の裏門にあたり、城南から出て来る者を 搦め捕る意味からこの名がある。 元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が 大将として城兵210余騎を率いて守備した所である。 (案内板より)
(真ん中)城址碑の奥に見えるのが、搦手門跡。
北口駐車場 遠景(北側から)
(左)搦手口の北口駐車場は広い! (真ん中)1番最初の写真と同じ所で。 (右)南口駐車場の桜。凄くきれい!

■高天神城
過ごそうな山…と思ったけれど、駐車場からすぐに追手門跡に 到着できるので嬉しい(^^)苦労せずに、それぞれの 曲輪へ辿り付く事がきるし、土塁も堀切も素敵で、長く続く 横堀も「おおっ!」て感じ♪大河内石窟は、怖そうだったので パスしたけど、約1時間のんびりと、大満足の見学ができた♪

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