トロとまったり・tripのページ(市川城 その2)

鐘楼堂が立つ土塁

【左】境内側から鐘楼堂と土塁を。
【右】境内側から鐘楼堂と仁王門(写真右側)を。

【左&真ん中】境内側から鐘楼堂と土塁を。
【右】鹿威しが…(^^)

【左】鐘楼堂の裏側の土塁を下から。
【真ん中】仁王門横、鐘楼堂の裏側の「真間寺で 斯う拾いしよ 散紅葉」(小林一茶)の句碑。
【右】仁王門側から東へ続く土塁を下から。

【左】(切り取り加工)仁王門から東へ続く土塁。
【右】左の写真の鐘楼堂下付近から土塁を。

【左】(切り取り加工)仁王門側から東へ続く土塁(上の切り取り加工の写真の左側)。
【右】左の写真の左側の土塁上。

【左】鐘楼堂の裏側で、鐘楼堂が立っていても土塁の奥行がある。
【真ん中】土塁上を東へ進んで、鐘楼堂方面を。
【右】鐘楼堂側から東方面の土塁上を。

【左】土塁上から伏姫桜を見下ろして。写真右奥が松平直基の墓標と土塁。
【真ん中】土塁上から土塁下へ向かうと不思議な感じ。
【右】土塁下から月見の広場方面を。

松平直基の墓標&土塁

■松平直基(なおもと)の墓標…また墓地には、真間山の歴代貫首の墓所の隣に、将碁形をした巨塔三基がある。 これは江戸初期の大名・松平大和守直基とその夫人ならびに母の墓標である。 直基は、徳川家康の二男で越前福井67万石藩主・松平(結城)秀康の子である。 寛永元年(1624)、直基は越前大野藩5万石に移封となった。 さらに正保元年(1644)に出羽山形藩15万石の藩主となり、次いで慶安元年(1648)、播磨の姫路15万石に移封され、同年八月に没している。 直基の遺骸は、その子直矩(なおのり)が真間山に送って埋葬したものである。 なお、直矩は父亡き後翌慶安2年に越後村上藩15万石に移封となり、寛文7年(1667)にいたり再び姫路15万石に戻っている。(案内板より)

月見の広場

月見の広場は桜がきれいだった♪

月見の広場からの景色。

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