【大多喜城 その1】

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千葉県 大多喜城  ちばけん おおたきじょう
■大多喜城(別名=小田喜城)
■千葉県立総南博物館(上総大多喜城本丸跡)
開館時間=9時〜16時半
入館料=大人 200円
休館日=月曜日(祝祭日の場合は翌日)年末年始
駐車場=無料           (2006.2.18現在)
住所=夷隅郡大多喜町大多喜481
館山自動車道 市原I.Cから右の勝浦、大多喜方面の国道297号へ下りる。 そのまま国道297号を進み、白山台交差点(左に大多喜城の看板あり)を右折、 T字路の泉水交差点を左折。大多喜駅入口交差点を右折、 そのまま真っすぐに進み、線路を渡って進み、メキシコ通りを走り、(大多喜城が見える) 大多喜高校を過ぎて少しして、右折。左に駐車場がある。

大多喜城
大多喜の中世の頃の地名は、資料の中に小田喜と見られ、 大多喜城もその頃は小田喜城ないし小田喜の城と呼ばれていたと思われる。 16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われているが、 天文期(1532〜1555)に房州里見氏の重臣であった正木氏が入り、 以後4代に渡り、上総正木宗家(かずさまさきそうけ)の居城として発展した。 その後、1590(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に 攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を 家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力を抑えようとした。 当時の城の様子について、ここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、 「城は高い場所にあって堀に囲まれ、城門は大きく殆ど鉄で 出来ており、厳重に警戒されている。また、御殿は、金や銀の飾りで美しかった。」 (日本見聞録)と、驚いている。 城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16年) 松平正久となった。松平氏は9代続き廃藩置県を迎える。 千葉県教育委員会は、この歴史のある大多喜城本丸跡に、昔を 偲んで城郭様式の県立博物館を建設し、昭和50年9月に開館した。
大多喜城本丸跡
大多喜城は夷隅川の蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に位置する。 城郭としての要部は西側の山塊が東に延びた突端に縄張りした近世城郭で 平山城の型である。 城内は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、本丸の天守閣は天保14年(1843)7月3日焼失した。 本丸跡6,420uは急斜面に囲まれ、周囲には土塁が残っているが、当時の石垣や建物はない。 この城は本多平八郎忠勝が10万石でこの地に封ぜられた慶長年間(1596〜1614)に 出来上がったものである。なお二の丸跡にある県立大多喜高校の一隅には、 周囲17m、深さ20mの大井戸と薬医門とが当時の面影を残している。 (千葉県教育委員会・夷隅郡教育委員会の案内板より)
大多喜城 (写真をクリック→拡大) 駐車場
左は元大多喜城主大河内松平家に伝来した絵図で元禄年間に 描かれたものと推定される「大多喜城地之絵図」。 9時前に来たから、1番のり〜!
トイレもあって便利な駐車場。
駐車場のお店 発掘された石垣の石
営業時間には賑わうんだろうな。  この社は、大多喜城再築の際に発掘された石垣の石。 (案内板より)
大多喜城址石碑 大多喜水道
城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えなかった。 最期の城主大河内(松平)政質は、人々のために水道を作ろうと、明治2年(1869) 11月に工事を始め、明治3年5月(千葉県最古)完成。この水道は、城下町200戸が利用し、新田5haが生まれさらに、 20haの水田に水が引かれた。 (案内板より)
なだらかな坂を上がって… 丸に立葵ののぼり 街灯も丸に立葵
2年ぶりの大多喜城はどうなっているのかな〜とワクワクしつつ歩く。 途中でのぼりが立ててあった。やっぱり丸に立葵(^^) ここでは丸に立葵の街灯だけど、町では丸に立葵と三つ扇の街灯がある♪
空堀 博物館の石碑
城には、敵が攻めにくいように堀をつくった。水の無い堀を空堀という。 山城には空堀が多く、平地に作る平城はほとんど水堀だった。空堀の 底は土や石なので、落ちると怪我をする為に、水堀よりも攻めにくいといわれる。 大多喜城は、西側の守りに空堀が多く作られている。 (案内板より)
二の丸公園
前回は、二の丸公園の遊園地の文字を見て「?」と思うだけだったんだけど、 今回は従って、進んで行くと…。 なかなか雰囲気のある道を上がっていく。振り返って写してみた。 どんな遊園地が待っているのか。 到着すると、梵鐘が設置してあった。 遊園地に梵鐘…。で、肝心の遊園地はというと、ブランコと、滑り台と…。
研修館 紋所
博物館の横には雰囲気を壊さない研修館が建っている。 瓦は勿論「丸に立葵」。よく見ると、桃が!! どういうことなんだろう。桃、桃…。 博物館の屋根の軒先瓦には、最初の大多喜城主となった 本家の「丸に立葵」と最後の城主松平家 「三つ扇」の二つの紋所が使われている。 (案内板より)
土塁
土塁は、堀と共に城を守る大切なもの。工事は、はじめに堀をつくり、 その掘り上げた土で土塁をつくる方法がとられる。 土塁の高さは、城内が見えないよう三間(約5.4m)位で作られた。 勾配は、敵が入れないように城の外側を急勾配でつくる。大多喜城では、 本丸跡の周囲に土塁が残っている。 (案内板より)

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