トロとまったり・tripのページ(羽衣石城 その1)

鳥取県 羽衣石城

とっとりけん うえしじょう

■羽衣石城=見学自由
駐車場=無料駐車場

2010/11/21現在

住所=東伯郡湯梨浜町羽衣石
この時は、米子自動車道 蒜山I.Cを下りて、国道482号へ右折。そのまま道なりに進んで、 国道313号へ左折。結構走り、小鴨橋西信号で国道313号へ右折、次に直進の県道205号へ。 そのまま進んで、県道38号へ(国道179号鳥取方面へ)左斜めへ。 そのまま直進の県道22号(少しだけ21号)へ進み、道なりに進んで、上井町2丁目信号で県道22号へ右折。 県道200号との分岐を過ぎた羽衣石橋の手前の信号を右折し(右に案内図がある)、道なりに進んで、ミラーの小さい案内板に従って右へ。 少しして、案内板に従い、左の橋を渡り1.5km進む。

羽衣石城

羽衣石城は、東伯耆の国人、南条氏の居城として、貞治5年(1366)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城である。 「羽衣石南條記」等の諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗と伝えられている。この貞宗は塩冶高貞の二男で、高貞が滅亡した時、越前国南条郡に逃れた。 貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366)に羽衣石城を築いたという。 この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後。 明徳の乱(1391)応仁の乱(1467〜1477)の為に、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、 南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するに至った。 大永4年(1524)隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、 打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。 南条氏の羽衣意思城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。 これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子、国久が入城した。 しかし、尼子氏の伯耆支配も長くは続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558〜1569)には、支配権を失った。 南条宗勝は永禄5年(1562)に、毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。 以後、伯耆国は毛利氏の支配化に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。 天正7年(1579)織田氏の山陰進出が本格的になると、南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。 毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などにより、これに対処したが天正10年(1582)羽柴秀吉の撤兵とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。 天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。 しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、西軍に属した南条元忠は役後に改易され、羽衣石城は廃城となった。 (東郷町教育委員会の案内板より・周辺案内図は湯梨浜町の案内板より・他は案内板より)

遠景
遠景
案内板

【左】写真の真ん中辺りの山。
【真ん中】ズームで♪模擬天守がちょこんと見える。
【右】県道の入口にある案内板。

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