新東名高速道路 ・ 愛知県(その他 2.新城市)
・・・ 2.新城市 ・・・
【2.おおまかに:長篠設楽原PA(下り)/ 織田信長戦地本陣跡 】
「郷土の歴史〜長篠・設楽原の合戦〜」
【左&右】「郷土の歴史〜長篠・設楽原の合戦〜」の案内板。(2016/12/28撮影)
■解説…天正3年(1575年)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。 21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千に対し武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、 一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。 武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。(案内板より)
織田信長戦地本陣跡(長篠設楽原PAから)(2016/12月)
■馬防柵…1575年長篠設楽原の戦いで、武田騎馬軍団の進撃を阻止する馬防ぎの柵で、織田・徳川連合軍は陣地の前にこの柵をめぐらし、鉄砲隊を並べて待ち構えました。 馬防柵に押し止められた上に、3千挺の火縄銃が絶え間なく火を噴き、武田騎馬軍の惨敗で終わりました。 近代兵器鉄砲が伝統的な刀と馬の戦法に取って代わった決定的な瞬間でした。(案内板より)
【左&右】織田信長戦地本陣跡への入口と馬防柵。(2016/12/28撮影)
【左】織田信長戦地本陣跡を見上げて。(2016/12/28撮影)
【右】織田信長戦地本陣跡の案内。(2016/12/28撮影)
【切り取り加工】織田信長戦地本陣跡の下側のヘアピンカーブ。(2016/12/28撮影)