【足助城 その1】

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愛知県 足助城 あいちけん あすけじょう
■足助城
(別名=真弓山城、松山城、足助松山の城)
■城跡公園=300円
公開時間=9時〜16時半(入城は16時まで)
休城日=年末年始(12/28〜1/4)
駐車場=無料駐車場       (2011.7.31現在)
(写真)本丸の高櫓(奥)と長屋(手前)。
住所=豊田市足助町須沢39-2
この時は、国道153号を進み、足助大橋西信号で 足助バイパスに入らず、右側の国道153号(420号)へ。 その後、右側の国道420号を進み、中学校を過ぎた左側の道を進む。 後は、案内に従う。

足助城
足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、 四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城である。 真弓山は、足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地である。 鎌倉時代に足助氏が居城したと言う 「足助七屋敷(足助七城)」の1つとも伝えられるが、今回の発掘調査では、 この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が 築城した跡と考えられる。なお、足助城は、元亀2年(1571)武田信玄に 攻略され、天正元年(1573)まで、武田方の城代が在番した。
■鈴木氏…戦国時代に西三河山間部に勢力を持っていた一族である。 そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と 5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれる。 16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返すが、 永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに 武勲をあげる。そして、天正18年(1590)康重の時、徳川家康の 関東入国に従って、足助城を去るが、間もなく家康から離れ、 浪人となった。
■発掘調査… 平成2年度から4年度まで、足助城の発掘調査を行った。 室町時代から戦国時代の山城の発掘調査は、全国的にも珍しいものである。 山城は、戦いの時の砦とも考えられるが、足助城では、どの曲輪からも 建物跡の柱穴がみられ、多くの日用雑貨や茶道具・文房具・白磁などの 渡来品(輸入品)も出土したことから、生活の場であったともいえる。 明確な建物がわかったのは、本丸・南の丸・北腰曲輪1・同2・西物見台で、 いずれも、掘っ建て柱の建物である。本丸腰曲輪3からは建物の礎石が 見つかっている。また、本丸と南物見台を結ぶ橋・井戸・堀切なども 分かった。 (足助町の案内より)
城址碑 冠木門
(左)城跡公園 足助城。 (真ん中)鈴木氏の家紋「抱き稲穂」「下り藤」。 (右)入場料を払ったら冠木門から城跡へ。
日月の碑
 真弓山には、南北朝時代まで足助地方に勢力を持っていた足助氏の
 本城があったと伝えられ、山頂の本丸には、「日月の碑」で知られる
 真弓山城墟碑や足助重治の歌碑などが建てられていた。ところが、
 昭和10年代に研究が進み、足助氏の本城は、真弓山から西南西の
 飯盛山にあったことがわかった。ここにある碑は、今回の足助城の
 復元にあたり、本丸から移したものである。(案内より)
堀切
足助城の中心施設と、南の山上に
伸びる施設を区切る役割を持つ。
堀底を通路としても使っていた。
(案内より)
(左上)小高い山が、南の丸で、
手前の道との間に、堀切がある。
(上真ん中)堀切。
(右上)南の丸から見下ろして。
(下2枚)南の丸の下側から。
南の丸腰曲輪方面へ 南の丸腰曲輪1 南の丸腰曲輪2
■南の丸腰曲輪1… 西南の谷間を監視する曲輪だったのだろうか。 小さな建物があったようだが、よく分からない。 (案内より) (左)堀切から時計回りで。写真右側奥の緩やかな所が、南の丸腰曲輪1。 (右)南の丸腰曲輪1より低い所。
井戸跡
足助には、山の斜面からの湧水を
溜めるために作った井戸もあった。
深い掘り抜き井戸のようにツルベを
使わず、大きな柄杓で汲んでいた。
(案内より)
(左)左が井戸、直進が西の丸へ。
(右)井戸跡には、円の石積みが。
西の丸腰曲輪1と西の丸との分岐点(シャクナゲ園)
平成8年11月に、豊田市の故柴田
喜三さんが大切に育てたシャクナゲ
(石楠花)を300本寄贈いただいた。
細い葉で、素朴な花の在来種、
丸っぽい葉で、華やかな花の外来
種があり、6月頃には、色とりどりの
花を楽しむ事ができる。(案内より)
 (左)左が、西の丸腰曲輪1へ。
 (右)シャクナゲ園を見上げて。
西の丸腰曲輪1
この曲輪の先端部分は、掻き上げた土で固められている。 小さな建物があったようだが、よく分からない。 (案内より)
(左)南側入口。 (真ん中)西の丸腰曲輪1の先端。 (右)西の丸から見下ろして。 上の方が形がよくわかる(^^)
西の丸へ
■柵列…柵は、敵の侵入を防ぐ為のもの。 2段目の横の木は、鉄砲を撃つ時、鉄砲の台にする様に 作られている。昔は、柵が藤蔓や藁縄で縛ってあったのであろう。 (案内より)
(左)西の丸の南西側。 (真ん中)急坂! (右)柵列が巡る入口へ。
西の丸
足助の町を見下ろすとともに、岡崎・名古屋への 街道が眺められる。2棟以上の建物があった事が 分かっている。この建物は、柵列近くまで、敷地をいっぱいに 利用したものである。 (案内より)
(左)緑がきれい! (真ん中)先端側から西物見台方面を。 (右)西の丸腰曲輪1から、西の丸の土塁を。
西物見台
この物見台は、大きな岩盤の上にある。2.75m×5.4mの 矢倉は、掘っ建て柱の建物である。2層にしたのは、 間近まで他の建物が建てられたためであろう。 (案内より)
(左)右奥が、本丸の高櫓。 (真ん中)南側から。 (右)西物見台下の木橋。
本丸腰曲輪3
西の丸と南の丸を結ぶ通路にある
小さな曲輪で、建物の礎石が見つ
かったが、足助城で礎石を使った
建物跡は、この曲輪だけである。
(案内より)
(左)西の丸側から南の丸方面。
(右)南の丸側から。細い所だ…。

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