七曲門跡から天守閣 | 入口からすぐ石垣! | 天守内の階段 |
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室内の階段を撮っていたら、下りるおじさんが待ってくれた(^^;) エヘ。と笑って会釈をしたら、ニコっと笑ってくれた。 | ||
石落としの間 | 石落としの間から外 | 武者走り |
この位置は西北の角にあたり、 石を落として侵入者を防ぐ間で、石垣より外に突出して いるのが特徴である。(案内板より) | ||
上段の間&武者隠しの間 | 犬山城の模型 | |
殿様が使用した部屋で上段の間という。床が一段と高く張られ、 この部屋だけが猿頬天井(さるほほてんじょう)が張ってあり、 この城の最上の室となっている。この奥に武者隠しの間があり、 殿様を守る武士が待機していた。(案内板より) | ||
付櫓 | 武具の間 | |
東南の角の突出部にあたり、攻撃、守備用として 造られたという。突出部は下段に三ヶ所の連子窓があり、 それぞれ遠くまで見渡すことが出来る。 (案内板より) |
ここは武士の武器武具庫に使用されていた部屋で、
三方に武具棚が設けてある。これを取り巻く2間巾の板の間を
武者走りという。(案内板より) |
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唐破風の間 | 低い手摺り | 瓦 |
南北に唐破風の間を配置し、東西を千鳥破風となっている。 当初、天守築城当時は無く、元和4年(1618)から貞享2年(1687) にかけて、70余年の間に成瀬城主が装飾として、増築したものと 伝えられている。(案内板より) 手摺りが低くて怖い(^^;) | ||
景色(西&北&東) | ||
木曽川。(左)伊木山&ライン大橋。伊木山は、
尾張に対する美濃三砦の1つらしく、
2007.10.7に行ってみた! ビックリするくらい本格的な登山で、大変だった(@o@) でも、登り時間は10分。ビックリ。 (右)ツインブリッジ犬山橋。 |
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景色(東&南&西) | ||
(真ん中)1番尖った山が尾張富士&その横(真ん中)が本宮山。真下は本丸。 (右)正面の小高い山が小牧城。 | ||
溝のフタ | 瓦の上の桃 | 説明板のリス |
犬山市章「丸に一の字」。犬山城主で旧犬山藩主成瀬家が、 丸に一の字の旗示を使用し、一郡を支配していたので、 犬山町制時代より町章として使用し、市制後も市章としている。 (案内板より) この列はおまけ写真を集めてみた(^^) | ||
犬山藩校 敬道館跡 (ここから下=2007.10.7撮影) | ||
犬山藩校の敬道館は、天保11年(1840)八代藩主・成瀬正住が 建てたもので、この流れを引くものが犬山北小学校である。 挙母(豊田市)藩主の内藤学文が建てた藩校の流れを引く、 崇化館中学と好一対である。 尾張候の附家老をしていた成瀬氏は、敬道館と同時に、名古屋屋敷に 学問所を建て、要道館と名付けたが、明治元年に敬道館に合併した。 敬道館は、翌年の天保12年4月に開館され、明治4年まで続いた。 職制は尾張藩校の明倫堂(今の明和高等学校の前身)を、模範として つくられた。文久以後は、総裁、幹事、教授、助教、監生、授読、 筆生、給事という職員を置き、生徒の定員は4,50人だった。 総裁は家老の兼務で、最初は水野弥之衛門だった。幹事は、今の 事務長のような人である。教授の定員は1名で、俸禄は10石、 初代は戸田新吾、次に鈴木玄道、維新後に村瀬太乙が就任した。 8才で入館し、15才で退館するのが決まりだったが、 退館後も希望者は受講することが許されていた。座席は、 長幼の順になっており、学科は読書、習字、作法(武家礼法、伊勢流、 古実)の三科目だったが、甲冑着用なども教えていた。 5つ(午前8時)から8つ(午後3時)まで授業をした。 毎月1日、15日、25日は休日とされていた。 日本最初の薬学博士下山順一郎先生も、軍人ではあったが、 学問のよくできた8代六郎大将も、この敬道館に学んだ人である。 (案内板より) | ||
三の丸・武術稽古場跡 | 「公園」石碑 | |
(左)からくり展示館付近の武術稽古場跡。でっかい釜があるなぁ(@o@) | 犬山城天守閣を中心とする丸の内一帯が、 明治12年、稲置公園として整備され、以後、犬山の 名所として多くの観光客を集めると共に、犬山町民の 憩いの場となっていた。この石碑「公園」は、稲置公園の 掲示表として、針鋼神社の社頭に建てられていたものであったが、 針鋼神社境内の整備に伴い、石碑を丸の内の一角に 当たるこの位置に移し、永く記念に留める事とした。 (犬山市教育委員会の案内板より) | |
大手御門(追手南門) | 二の丸の矢来門(専修院東門) | |
高麗門の形状をして、三の丸大手桝形の西面入口にあり、
城下町からの第一の門である。西に面した大手門を入ると、
門前の桝形と殆ど同坪数の四角の桝形があり、四囲石垣を繞(めぐ)らし、
石垣の上には厚さ二尺余の土塀があり、土塀に狭間があけてある。
大手門は鉄張りの大扉門であった。門を入って正面に御番所があった。
同心数人が詰切って弓矢、鉄砲、鉄棒等を備え頗(すこぶ)る厳格で、
夜10時に門を鎖(と)じた。(案内板より)
ここは、大手門いこいの広場になっていて、説明板もあって嬉しい♪ |
この門は、もと犬山城二の丸の矢来門で、明治9年、 ここに移された。城郭建築特有の高麗門という形で、 裏側の本屋根と直交する2つの屋根があるのが特長である。 扉などからみて、初期城門の形式を残していて、300数十年前を しのぶ貴重なものである。 (扶桑町教育委員会の案内板より) | |
■犬山城…2007.10.9記
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