帯曲輪地区 |
小牧山城・小牧城下町模型 |
梅の花 |
小牧山の麓は、帯曲輪地区と呼ばれている。山全体を取り巻く
土塁のすぐ内側にあたり、細長い平地が分布し、多数の軍勢を
収容する機能があった。これは小牧・長久手の合戦の時の姿で、
信長の城であった時は、堀で区画された武家屋敷が配置されていた。
整備工事では、小牧・長久手の合戦当時の土塁や曲輪の姿を
復元したが、信長時代の武家屋敷の堀や井戸も一部復元している。
(案内板より)
|
|
|
|
小牧・長久手合戦の堀(V・3)&土塁U |
江戸時代初期に描かれた春日井郡小牧村古城絵図によれば、
この辺りの小牧山の南東麓は、二重の土塁の間に堀が配置
されて、外敵の侵入を防ぐようになっていた。現在、
右側に見える堤防のような土の盛り上がりが土塁で、
堀を掘った土を積み上げたもので、天正12年(1584)の
小牧・長久手の合戦の時に徳川家康の軍勢が築いたものである。
正面の低い部分が堀で、左側の県道の下まで延びていて、
幅12m程だったものと推定している。堀の底は平坦で、
道のようになっていた。内側の土塁との比高は5mを
超えるが、整備にあたっては、排水の関係上、本来より1m程浅くしている。
堀は、水を貯めない空堀で、更に左側には、内側の土塁よりも
低い外側の土塁があったが、江戸時代のうちに削られてなくなった。
底が平坦で幅の広い堀に外側の土塁があることにより、
堀を通路のように使用して多数の軍勢を移動させることが、
出来たのではないかとも言われている。(案内板より)
|
曲輪401&土塁U |
曲輪402 |
土塁Uの切れ目に、「ここは虎口?」って思ったけど、ただの入口(^^;)
公園入口だからきれいにしているよね…。
|
|
|
|
虎口f |
ここは天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の際、
小牧山城の東の出入口であった部分である。小牧山城については絵図や文献に詳細な記録が無く、
城の各部分の名称も伝わっていない。そのため、整備事業にあたり、
小牧山城の曲輪や虎口などの遺構は、統一的に記号や番号で表示する
ことにした。ここは虎口fと命名した。
虎口fは、右からの土塁Vが内側へ直角に屈曲し、さらに左に直角に
屈曲して、左からの直線的な土塁Uと組み合わさって虎口を形成している。
虎口は大変狭く、幅2mほどになっていて、一時に多数の兵が進入できないように
なっている。また、進入する時、左に直角に折れて、城の中に入っていくことになる。
攻城側の兵は、このとき防御の弱い側面を守備側にさらしながら前進し、
横の土塁上から弓や鉄砲などで攻撃を受けることになる。また、土塁が
屈曲していることで外から城の内部が見えない構造になっている。
虎口fの著しい特徴は、虎口の内部に幅12m、深さ3.5mの深い堀VIが入り込んで
いることである。このままでは人馬の出入りができないので、何らかの
施設があったものと推定されるが、発掘調査ではその痕跡は発見できなかった。
この木橋は、見学用の通路で、本来の虎口にあったものではない。
また、復元した堀は排水の関係上本来の堀より、2mほど浅くなっている。
(案内板より)
(右下=虎口fから出て、合瀬川を見る。)
|
|
|
|
曲輪402と403aの間の堀(堀SD05) |
堀SD05は、曲輪402と曲輪403aを区画し、
幅3m、深さ2m以上の規模をもっている。
堀の南には土塁が築かれていた痕跡も発見された。
堀の形態は断面がV字型の部分と底が平坦な部分がある。
また、堀SD21は、堀SD05から少し離れて始まり、
曲輪403aを区画していたものとみられるが、
学校造成で削り取られた部分が多く、全体像を明らかに
出来なかった。
状態の良い土塁際や堀の存在が予想される部分に限定して、
発掘調査を行った。
曲輪402と曲輪403aを区画している堀SD05
の南側で土塁の積み土の痕跡を発見し、曲輪402は土塁が
取り囲んでいたことを明らかにした。また昭和2年
地形測量図と対比すると、堀DS05は曲輪402の北西角まで
続かず、北西角付近に出入口があったものと見られる。
曲輪402は、小牧山で最大規模の曲輪で、織田信長の館跡の
可能性がある。(案内板より)
|
曲輪403aと403b |
曲輪403b(右)と曲輪404の堀 |
曲輪404(右)と曲輪405-1aの堀 |
曲輪403aと曲輪403bの間には、堀が認められず、
それぞれの曲輪を南北方向に区画する堀SD21等の
存在から、この二つの曲輪は方形の武家屋敷でなく、
南北に細長い形態で、曲輪402の付属施設であった可能性がある。
(案内板より)
|
堀SD13は、曲輪403bと曲輪404を区画している。織田信長が小牧山に
城を築いた時に掘られ、小牧長久手の合戦で虎口や土塁を築いた時に、
堀の一部が埋められた。(案内板より)
|
曲輪404は、織田信長の小牧山城の時代、小牧山東麓に配置された
武家屋敷の1つとみられ、北側も堀で区画されている。
本来は一辺約45mの規模があったと見られる。
(案内板より)
|
|
|
|
虎口g |
|
虎口gは、小牧・長久手の合戦の際、
土塁に幅約1.5m程の切れ目を作り出入口としたものである。
虎口付近で、土塁をL字型に屈曲させることにより、
内部が見えにくくしている。また、虎口fと同様、虎口の前面に
深い堀DS09を配置した堅固な造りであるが、江戸時代初めに堀を
利用して木津用水が築かれたため、全体の構造は明らかに出来なかった。
(案内板より)
|
曲輪405-1a(右)と405-1bの堀 |
|
この付近は、中学校利用時にはプールがあった場所で、
整備工事では、なるべく城のあった時代に近い形で復元したが、
遺構を保護するため、本来の地表に盛土している。
その結果、永禄期や天正期の地表は現地表の約1m下になった。
信長時代の武家屋敷は、小牧・長久手の合戦で徳川家康の
軍勢が行った土塁や堀を作る防御工事で、土を掘ったり、
盛ったりしたため、かなり壊れており、発掘調査では、
井戸や堀などの深く掘りこまれた遺構だけが発見された。
堀や井戸は、復元された堀や井戸の地下約1m下に保存されている。
(案内板より)
←堀跡が土塁の下にある状態を、土塁の一部を切り取った状態で表現。
|
曲輪405-1a |
曲輪405-1b |
曲輪405-1c |
2月の夕方5時半近くでも、まだ明るくて助かった〜(^^;)
帯曲輪を堪能出来てよかった♪
|
|
|
|