愛知県 長篠城 |
■長篠城=見学自由 ■長篠城址史跡保存館=210円(他共通券有り) 開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで) 休館日=毎火曜(休日の場合平日)・年末年始 駐車場=無料駐車場 (2011.7.28現在) (写真)帯曲輪と本丸との堀。 |
住所=新城市長篠 この時は、国道151号の鳥居強右衛門が描かれた 長篠城址史跡保存館の看板や長篠城跡の案内に従った。 すぐに駐車場。 |
長篠城 | ||
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長篠の地は、豊川を遡って約25km、長野県、静岡県北部に 通じる道中にあり、この辺りから平地は山に移っていく。 江戸時代の豊川舟運も長篠城を越える所で終点になる。 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる 境目の城であった。 長篠城の南面は、豊川本流(寒挟川)と宇連(うれ)川の合流点にあり、 ともに50mの断崖である。本丸の西北は矢沢の険しい谷である。 平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵または塀で囲んだ。 平地へ移って来てもできるだけ天険を利用した戦国末期の 典型的な築城である。 本丸、帯曲輪、野牛曲輪、巴城曲輪、瓢(ふくべ)曲輪、 弾正曲輪など、総面積約10ha。 永正5年(1508)今川氏の将菅沼元就築城。天正3年(1575) 2月、徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し、城郭整備。 5月、武田勝頼の猛攻に耐える。天正4年(1576)長篠城を取り壊し、 新城市へ移築した。 (案内板より) |
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長篠の戦い | ||
天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将 奥平貞昌以下500が守るこの長篠城を包囲して、攻防約10日、 織田信長三万・家康8千の援軍は、5月18日、西方4kmの設楽原に 到着して陣を築く。武田軍は、20日長篠城の囲みを解いて、 設楽原へ進出。21日には夜明けとともに織田・徳川軍の 陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ、 歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。 (案内板より) |
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長篠城跡の入口 | 鳥居強右衛門の看板 | 巴城曲輪 |
(左&真ん中)長篠城跡の入口付近に、 鳥居強右衛門の磔姿の看板が。(右)駐車場にひっそりと標柱が…。 | ||
さかさ桑 | ||
長篠の戦の落武者が、寒挟川の中流にある小松集落にさしかかって、 民家の庭に杖を突きさした。土地の物はその剛力を見て只者では無いと 思い、その杖に手を触れなかった。落武者は、武田勝頼であった。 杖からは桑の芽が出たが、下方に向かって伸びるので「さかさ桑」と名付け られた。近年それが枯れたので、土地の人が惜しみ、新しいのをこの土地に 植えた。 (案内板より) |
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長篠城址史跡保存館 | ||
(左)帯曲輪に立つ。2階が保存館。結構、楽しめた♪ (真ん中)織田、徳川、奥平、武田が凝縮だ(笑) (右)入口。 | ||
(左)戦跡模型。凄く細かく表示されているので、
見ごたえがある。
(真ん中)長篠城の部分を。 (右)明治・大正の頃の吉田通いの舟運の発着地点の 当地方の豪商久保屋・望月喜平治商店の穀倉の鬼瓦。 |
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亀姫屋敷の門(復元) | ||
長篠の戦いの翌年、奥平信昌(貞昌)夫人として輿入れした亀姫の屋敷の 門である。解体保存されていたが、ここに復元して展示した。柱・扉は、 クスノキが使われている。 亀姫は、永禄3年(1560)6月4日、徳川家康の長女として駿河に生まれる。 永禄5年、岡崎城に移り、天正4年(1576)奥平信昌の妻となった。 (案内板より) どうやって写そうかと思ったけど、結局、普通に写すしかなかった(^^;) |
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帯曲輪(二の丸)・本丸北側付近 | ||
(左)写真正面が、本丸北東の土塁と内堀跡。 (真ん中)帯曲輪(二の丸)と本丸北西側の堀跡。 (右)長篠城址碑。 | ||
帯曲輪(二の丸)と本丸(北側〜東側)の内堀跡 | ||
天正3年の姿を残している。堀の土はかき
上げられて土居にし、堀には水を引き入れた。
土居と堀は直線に進まず、直線に近い出入りがある。この
形はやがて近世の城郭へ移り変わる姿を見せている。
(案内板より)
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帯曲輪(二の丸)・本丸東付近 | ||
(左)こちらには、長篠合戦図の看板が♪
(真ん中)本丸の土塁から見下ろして。形がくっきり♪ (右)真ん中の写真を横(線路側)から。 左側が本丸の土塁、右奥が帯曲輪(二の丸)、その間が、内堀。 |
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