本丸の土塁(北〜東側付近) | ||
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(左)本丸北側から土塁上へ。 (真ん中)上がってすぐに長篠城址碑。 (右)左の写真を内堀から。高さがある! | ||
(左)本丸北側からの階段から土塁の側面を。 (真ん中)東側から北側(城址碑)方面。 (右)本丸から土塁を。 | ||
(左&真ん中)稲荷神社跡。本丸南東の土塁は、線路で分断されている。 (右)帯曲輪(二の丸)との堀を上から。 | ||
本丸 | ||
(左)緑のきれいな本丸。 (真ん中)長篠城 本丸跡の大きな標柱。供養塔も立っていた。 (右)不忍の滝。 | ||
磔に散る 烈士 鳥居強右衛門 | ||
5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料は あと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ 救援を依頼する使者として長篠城を抜けでた。 梅雨の時、増水の寒狭川へおりて、豊川を下ること4km。 15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙を上げ、岡崎へ走った。 (長篠〜岡崎は50km)岡崎には援軍の織田信長も到着していた。 家康、そして信長の前で城の危急を訴え、周りの人々も感動した。 使命を果たして、休養を勧められたが、彼はすぐ引き返した。 16日の朝、再び、かんぼう山で「援軍来たる」の狼煙3発。 そして長篠城の対岸まで来たが、厳重に警戒する武田軍に 捕らえられた。 武田軍から「援軍は来ない城を開け、武田軍は厚くもてなす」 と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。 (この時、城は本丸と二の丸だけ残る)しかし、「援軍はくる。 この眼で見てきた、あと2、3日、堅固に守れ」と叫んだので、 対岸の篠場野の地で磔にされた。 強右衛門その時36歳。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に 到着して陣をしいた。(案内板より) | ||
武田軍の砦 | 鳶が巣山 | 渡合(どあい) |
■渡合…左手宇連川と右手寒挟川の合流点。
長篠城址の南端。向かいの橋は、牛淵橋。
(案内板より)
(左)鳶が巣山〜久間山辺りかな…。 (真ん中)背の高い山が、鳶が巣山。 (右)木で川が見えない…。 |
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武田軍5つの砦 | ||
宇連川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(のぶざね…信玄の弟) 以下各武将が陣をしいた。5月20日、本隊は設楽原へ 進出したが、この部隊は長篠城の押さえとしてここに残った。 5月21日(太陽暦7月9日)夜明け、徳川軍の酒井忠次(吉田城主・豊橋市)は、 東三河の将士を引きいて、この武田軍の5つの砦を急襲した。 この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が 巣砦方面の火の手と銃声に驚き、本隊に戦闘開始を指令した。 5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが、 多数が討死して、残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流 しようとした。 その前夜、酒井忠次達将士は、大雨の中を豊川渡河(舟着山)の 裏を回り、5つの砦の背後の山中に潜み、夜明けを待っていたのである。 (案内板より) | ||
物見櫓跡 | ||
(左)本丸から、線路越しに見える標柱(笑) (真ん中&右)下側から。小高い土塁になっている。 | ||
野牛曲輪 | ||
(左)ストーンと細長く続く曲輪跡。 (右)殿井。なんか、雰囲気が…。 って感じだったので、説明板だけ。 ちなみに、飲料水だったんだとか。 |
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大手門跡 | ||
(左)コンビニの駐車場隅に標柱。 (真ん中)角度を変えると、全く見えない! (右)ここ。とりあえず、コンビニへ(笑) | ||
倉屋敷跡(糧庫跡) | 家老屋敷跡 | |
二の丸。他、林藤太夫高英屋敷跡 の石碑も立つ。(建物左側にある) 徒歩で散策したのはここくらい(笑) 長篠・設楽原の戦い史跡案内図を 片手にここまで歩いてきたけれど、 結構、時間がかかるんだな…と。 という事で、車で移動&見学(笑) |
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弾正曲輪 | ||
(右)弾正曲輪(手前)から帯曲輪(長篠城址史跡保存館)を。 曲輪の間には、矢沢川が流れている。 | ||
瓢(ふくべ)曲輪 | 搦手門跡 | 長篠城駅 |
(左)柵の手前に標柱。私有地の奥が線路。
確か、見つけにくかったんだよねぇ…(^^;)ここに!?みたいな。
(真ん中)電柱の横に標柱。石が固めて置いてあったけど、何かな? (右)奥にポツンと。なんかいいなぁ(^^) |
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■長篠城
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