名勝二之丸庭園 |
現在の庭園は、昔の庭園を調査しその基本の性質を踏まえて
拡充復元したもの。
面積は、5,137u(1,567坪)で枯山水廻遊式庭園で庭園内の建物を
挟み、南庭と北庭とに別れ、北庭が比較的、創設当時の姿を
よく残している。北庭は、五つの築山で囲まれ、
三つの中島と、数多くの出島のある池を中心として作られ、
石橋、山道、岸づたい等変化のある廻道路がめぐらされている。
池には、深い渓谷の趣きを表現し、池底は庄内玉石敷で、その下は、
南蛮たたきになっている。石組は、佐久島石、篠島石、幡豆石、桃取石
等数多くの名石が使用され、樹木は松を始めとして、観賞用、
薬用、非常用の物等が植えられている。(案内板より)
紅葉がほんのり色付いていてきれいだった♪
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那古野城跡 |
二之丸東庭園 |
大永(1521〜28)の初め、今川氏親が名古屋台地西北端に築いたもので、
一名「柳の丸」といった。氏親は、一族の氏豊を城主として
守らせていたが、天文元年(1532)織田信秀のため城を奪われた。
その後信秀が居城し、天文3年信長はここで生まれたといわれる。
同年、信秀は古渡城に、また、弘治元年(1555)信長も清須に移り、
一族の信光が居城したが、やがて廃城となった。
慶長15年(1610)名古屋城築城の際、二の丸の一部となった。
(名古屋市教育委員会の案内板より)
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明治の初めに兵営建築の為、二之丸庭園の多くが壊された。
名古屋市蓬左文庫所蔵の「御城御庭絵図」に基づいた発掘調査で
現れた北池・南池・茶席「霜傑」建物跡・暗渠の四遺構を中心に
整備し、昭和53年4月に二之丸東庭園として開園。
面積は、約14,000u。(案内板より)
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北暗渠(きたあんきょ) |
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「御城御庭絵図」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が、
発掘調査した時のままの状態で整備。絵図によれば、この付近には花壇が
あった。これは、「金城温古禄」にある、雨水を引き入れる「水道石樋」
の遺構と認められる。現在もここに溜まった雨水は、石樋を通じて堀へ
注いでいる。石材は、蓋石が花崗岩、側石が硬質砂岩である。
(案内板より)
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南蛮たたき鉄砲狭間からの堀 |
南蛮たたき鉄砲狭間 |
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二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた
練塀の遺構。この練塀は「南蛮たたき」で固められた
非常に堅固なもので、円形の鉄砲狭間が見られる。
名古屋城の遺跡としては、非常に珍しいもの。
(案内板より)
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埋門跡(うずみもんあと) |
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埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門を言う。
埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、城主は
ここから脱出する事が決められていた。
この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り濠を渡って対岸の
御深井丸の庭から土居下を通り大曽根、勝川、定光寺を経て、
木曽路に落ち行く事が極秘の脱出路とされていた。
(案内板より)
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