埋門跡付近の堀 | 石垣 |
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左の写真の堀が緑できれいだったから、石垣と堀を一緒に写してみた(^^) 右は、石垣の位置がとても好きだったから写したもの。お城はこういう楽しみ方もあるから嬉しい(^^) |
旧二之丸東二之門 | 東一之門跡 | 清正石 |
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この門は東鉄門といわれ、もとは二之丸の東二之門(外門)として、 枡形を形成していたが、昭和38年、二之丸の一角に愛知県体育館が 建設されるにあたって、一時、解体し保管していた。 昭和47年、ここ本丸東二之門跡へ移築した。形式は高麗門で、 本瓦葺き、軒回りは漆喰塗り籠めとし、柱・冠木・ 扉等には帯鉄を打ち付けている。 (案内板より) | 東一之門は搦手門の枡形の内門で、構造は屋根入母屋造り本瓦葺、 上層は総塗籠造り右脇小門の開戸付きの櫓門であった。 表一之門とは殆ど同じ構造であったが、昭和20年戦災で焼失した。 (案内板より) | 名古屋城の門は、櫓門(二階建)と高麗門(平屋建)を枡型に配置し、 石垣には防備を誇示する為に大きな石を組み入れた。 この石は加藤清正が運んできたといわれてきたが、この石塁は黒田長政の 丁場であったので、「清正石」というのは単なる伝説であると思われる。 (案内板より) |
不明門(焼失再建) | ||
多門塀の下をくぐる埋門で、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、 常に鍵が厳重に施され、別名を「あかずの門」といった。 塀は外部の軒桁を忍返しにした「剣塀」である。 昭和20年5月14日、空襲で天守閣等と共に焼失、昭和53年3月、 原形の通りに再建した。 (案内板より) | ||
御殿椿(↓説明文) | 階段の模様(刻紋の模様♪)&金の鯱 | |
江戸時代から本丸御殿南の庭にあった尾張藩 秘蔵の銘椿で3月中旬から4月上旬に白八重大輪の花を咲かせる。 原木は昭和20年の空襲で焼失したかと思われたが、焼けた幹の下から再び 新芽が伸び復活した。この木は、昭和30年頃に原木から接ぎ木、 育成したものである。 ↓焦ったらブレた(^^;) | ||
石垣の刻銘 | ||
石垣の築造は、丁場割に基づき加藤清正はじめ 二十の諸大名に分担させたものである。 天守閣の石垣は、清正一手の築造であり、その四箇所の隅石には 銘石を使用し、担当した家臣の名を刻んでいる。 なお、東北隅北面石には「加藤肥後守内小代下総」と刻名されている。 (案内板より) | ||
西北隅櫓 | ||
別名戌亥隅櫓とも清須櫓ともいう。 屋根三層、内部三階で、最上層は入母屋造り本瓦葺で、 他の建物の古材を多く用いて建てられた。 一階の外壁の西面・北面に出張った落狭間(石落し)を設け、 屋根を千鳥破風にして擬装している。現存する他の隅櫓と 違って、内側の東面・南面にも千鳥破風を設け荘重で安定感がある。 (案内板より) 凄いどっしり。 |
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本丸御殿跡 | ||
本丸御殿は慶長17年(1612)から元和元年(1615)にかけて 建てられ、当初は藩の政庁として使用されていたが、 寛永年間(1634)に大改修されて以来、将軍が上洛する時の 宿館にあてらていた。 御殿は書院造りの大建築で二条城の二ノ丸御殿と並び 称されていたが第二次大戦の昭和20年5月14日惜しくも焼失し 礎石を残すのみとなった。(案内板より)(右)本丸御殿復元予想図。 | ||
表書院(広間) | ||
訪問客の応接等の公式儀礼に使われる為、武家の正殿として 最も格式を重んじた建物。各部屋は花木図や花鳥図で飾られ、 穏和な中に雅で趣のある雰囲気が漂っていたといわれている。 (案内板より) | ||
対面所 | ||
家臣との対面など、内々の謁見の場として使われた。 上段之間・次之間に描かれていた風俗図には洛中(京都)・洛外の年中行事や 庶民の生活が生き生きと描かれていた。(案内板より) | ||
上洛殿(御成書院) | ||
寛永11年(1634)3代将軍家光が京都に上洛する際の 迎賓施設として建設。床の間や襖、天井に絵画が描かれていた。 狩野探幽による「帝鑑図」が有名。彫刻欄間や飾り金具、 蒔絵等により豪華・華麗に飾られていた。(案内板より) | ||
御湯殿書院 | ||
湯殿とは浴室のこと。浴室とともに設けられた三部屋で構成される 建物で、上洛殿の付属建築として建てられた。(案内板より) | ||
黒木書院 | ||
檜造りの豪華な本丸御殿の中で、黒木書院は良質な
松材で造られていた。その色つきによって黒木書院、
或いは黒書院と呼ばれていた。
(案内板より)
←本丸御殿跡からぐる〜っと見て 回れるけど、誰一人歩いていない…。 |
石垣の勾配 | 剣塀 |
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名古屋城天守閣の石垣積みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」
の技法が取り入れられている。これは加藤清正が担当して築いたので、
とくに「清正流三日月石垣」といわれている。
この技法は、石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による
力を分散させ、はらみを避ける為である。
(案内板より)
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大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、
石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防備とし、
さらに外部の面する西側には軒桁に30cm余の槍の穂先を
並べて忍返として外敵に備えた。剣塀は、大天守閣に東接する
「不明門」にも見られる。
(案内板より)
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