【大給城 その1】

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愛知県 大給城 あいちけん おぎゅうじょう
■大給城=見学自由
■大給城址公園
駐車場=無料駐車場       (2007.10.6現在)
住所=豊田市大内町字城下
この時は、東海環状自動車道 豊田松平ICを下りて、 左の岡崎方面の国道301号へ。次に、国道301号が、松平橋東信号で 新城方面へ右になって、少し走って、九久平町簗場信号で、 国道301号が左になるので、左折。少し走って行くと、 右に案内板(フクロウの乗った開通碑もある)があるので、そちらに右折し、 坂を上がって行くと、右に駐車場がある。

大給城 (写真をクリック→拡大)
本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津に進出した 松平宗家3代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家4代)に与えた。 親忠は、細川城とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が 大給松平氏の初代となった。大給松平2代乗正は、永正7年(1510) までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗と続き、 天正18年(1590)6代家乗の時、徳川家康の関東への国替えに伴って、 上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。
大給城址は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204mの 急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城街道との 交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でも あるという交通の要衝であった。 城の東西には、尾根づたいに攻めてくる敵の侵入を 防ぐ為に、堀切A・Bを設けている。 東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(入口) Cを抜け、曲輪2を経て主郭1へと至る。城内のいたる所には 花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。 Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を 望むことが出来る。岩上には一辺数cmの穴が並んでいるが、 いつ何のために開けられたかは不明である。 D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。 主郭1から南に下ったところにある3は、城主の館跡と考えられる。 (豊田市教育委員会の案内板より・絵図も)
国道から大給城への入口 駐車場 大給城の入口
国道からそれる時の目印の開通碑。
フクロウが、ちょこんっと乗ってる(^^)
開通碑を過ぎて進んで行くと、右側に駐車場がある。 愛車と一緒に(^^) 駐車場から少し坂を上がると、
右側に大給城への入口がある。
松平氏遺跡 大給城跡石碑 堀切A 虎口C(最初の)
大給松平氏の墓所と反対側の道へ進み、 大給城跡へテクテクと歩いていくと、薄暗い中、遺構が見えてくる(^^)
虎口C(最初の)の内側から 曲輪2の虎口(虎口C)外側から 左の写真の左側の櫓台
内側からの方が屈曲がよく分かる。 同じ虎口Cでも、次の虎口。 櫓台に石積みが見られる!
曲輪2の虎口(虎口C)内側 曲輪2の虎口(虎口C)の櫓台を内側から
上真ん中の虎口を内側から見たものだけど、両側ともいい感じで石積みが見られる(^^)
曲輪2 曲輪2の土塁 主郭と水の手曲輪(右下)方面
山並みを巧みに利用していて、凄いなぁ〜と 思うんだけど、異様に蚊が寄ってくるので、落ち着いて見れない(^^;)

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