設楽原の戦い |
天正3年(1575)5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて
長篠城を取り囲んだ。城主・奥平貞昌は城兵500とともに
よくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、
織田、徳川の援軍を得る事に成功した。20日、武田軍は
3千の兵を長篠城の押さえに残し、織田、徳川連合軍
3万8千の布陣するこの設楽原に進撃した。
戦いは5月21日(陽暦7月9日)連吾川を挟み、織田、徳川の
鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返した。
3千挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍は殆どの勇将、智将を
失う惨敗を喫し、勝頼は僅かの兵に守られて甲州へ
落ち延びていった。(新城市教育委員会の案内板より)
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馬防柵 |
天正3年(1575)設楽原の戦いに用いられた馬防柵を
再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に
徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、
区別して構築してみた。両者の様式には攻口(出入り口)の
設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で
防ぎ止め、その内側にあって鉄砲で狙い撃ちにする為に
造られたもので、延長2粁余に及んでいた。
決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、
背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、
さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、
逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。
(設楽原をまもる会の案内板より)
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設楽原歴史資料館の北西の交差点を左折。橋を渡って右へ。
駐車場は
「?」だけど、スペースに。(住所=新城市大宮)
(左上)設楽原古戦場いろはかるた。
(右上)背後から何かが来そう!!
■名和式・鉄砲構え…
天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、
武田勝頼軍との
設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」は、
乾堀と馬防柵と銃眼付きの 身がくし(土塁)の三段構え
であった。古文献と時代考証による復元である。
(設楽原をまもる会の案内板より)
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土屋右衛門尉昌次戦死の地 |
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設楽原歴史資料館の北西の交差点を左折。橋を渡って右へ。
駐車場は「?」だけど、スペースに。(住所=新城市大宮)
馬防柵再現地の一角に、ポツンとある。
設楽原古戦場いろはかるたが、 馬防柵に付いていた。
「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」…切ないなぁ。
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柳田前激戦地 |
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設楽原歴史資料館の北西の交差点
を左折。(住所=新城市)
(左)赤く色付いていてきれい♪
設楽原古戦場いろはかるたも設置
されていたけど、写さず…(^^;)
(右)激戦地の近くに、柳田橋があり、
騎馬隊のモチーフが見られる(^^)
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竹広激戦地 |
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東郷中学校の東側。(住所=新城市)
(左)右側の説明板の横に碑。
ここは分かりづらくて、なかなか
たどりつことができなかった(^^;)
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徳川家康本陣 |
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■徳川家康本陣
■八剱神社
駐車場=無し(この時は路駐。) (2011.7.28現在)
住所=新城市竹広
この時は、国道151号と県道438号との富永新知信号で、
国道151号を東へ進み、川を渡った信号を左折、
右側に東郷中学校、過ぎた右側に八剱神社がある。
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天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を
救援するため、家康は織田信長ととともに設楽原に出陣した。
家康は、この弾正山に本陣を置き、これより東約300m
(東郷中学校の向こう側)を南北に流れる
連吾川を挟んで、武田軍を迎え撃った。
この地は、まさに最前線である。ここに家康が本陣を
構え、多大な犠牲を払って戦ったのは、信長に援軍を
頼んだ経緯があったからだと思われる。
この東北約400mの地点に、家康物見塚と呼ばれる所がある。
そこは、家康が陣頭指揮をしたところである。
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徳川家康本陣の碑 |
設楽原古戦場いろはかるた |
石碑への誘導案内板 |
(左)1番上の写真の右側。
(右)境内の裏から進むも、どこにある?状態。
そんな時、案内を発見。従うと奥に、碑が!
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家康本陣地の碑 |
断上山古墳 |
東郷中学校の馬防柵 |
(左)右上の案内に誘導され、碑に到着。
(真ん中)物見っぽいのに、古墳!!
(右)そばにある中学校には、馬防柵!
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