【久保田城 その1】

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秋田県 久保田城 あきたけん くぼたじょう
■久保田城=見学自由
■千秋公園
■御隅櫓=100円
開館時間=9時〜16時半(変更有り)
休館日=12/1〜3/31
駐車場=有料駐車場(路駐できた)(2010.9.24現在)
住所=秋田市千秋公園
この時は、千秋公園の東側の県道28号(大手門通り)を 南下し、久保田町信号で、県道26号へ右折。 堀の横を進んで、千秋公園入口信号を中土橋通りへ右折。 そのまま進むと、二の丸の南側の有料駐車場。 この時は、この付近のスペースに路駐した(^^;)

久保田城
久保田城は、秋田20万石・佐竹氏の居城である。 慶長7年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主 佐竹義宣(よしのぶ)が、翌慶長8年(1603)5月から着工し、 翌9年8月に完成した、天守閣と石垣の無い 城であった。 久保田城は、12代・佐竹義堯(よしたか)まで約270年と続いた。 久保田城が築かれた神明山(しんめいやま)は、 3つの高地からなる標高約40m 程の起伏のある台地で、別名三森山(みつもりやま)とも 呼ばれていた。 本丸は、明治13年(1880)7月の火災で全焼した。 千秋公園は、明治期の造園家長岡安平の設計によって、 整備された。本丸御殿の御池や 城内の土塁・通路などの遺構を活かして行われ、 明治30年(1897)に近代的な城跡公園として 千秋公園が完成した。長岡は、その後も城跡公園など の設計を多数行ったことから、近代公園の先駆者と 呼ばれている。城跡を本格的に公園化する事業は、 全国でも初の試みであり、千秋公園は、全国の城跡 公園及び近代公園の先駆けとして貴重である事から、 秋田市の名勝に指定された。 (秋田市の案内板より)
(右下の案内板)番号は、標柱の印というだけ。
上中城町 大手門跡
■上中城町…
城内三の丸にある重臣の屋敷町で、 城の大手にあたる地区であった。
■大手門跡…
久保田城の正門にあたる大手門の 跡である。城下町から外堀に架かる 上土橋を渡り、カギの手を左に曲が った所に、二層の大手門があったが、 明治初期に取り壊された。 (2枚=秋田市の標柱より)
大手門の堀
(左)堀にたくさんの蓮!背丈が低いものから 高いものまでいろいろ。 (真ん中)咲いていた♪(右)昼寝中のカモ。
穴門の堀 中土橋門跡 城址碑
(左)こちらの堀はスッキリ。 (真ん中)中土橋門側から土橋方面(南側)を。 (右)中土橋門付近にある城址碑。
旧下中城町(屋敷跡)
城内三の丸にある渋江、梅津両氏を
主とした重臣の屋敷町で、城の搦手
に当たる地区。(秋田市の標柱より)

(左)渋江氏の屋敷跡には、県民
会館(写真)や高校が建っている。
(右)梅津氏の屋敷跡。
下中城と二の丸の間の堀 穴門の柳 唐金橋跡
(真ん中)堀の側に大きな柳。 (右)下中城と二の丸の間の堀に掛かる橋跡で、下中城方面。 写真右の道が穴門へ。
穴門跡&穴門橋跡(佐竹小路)
穴門は、外町や土崎湊へ通じる重要な門であった。 ここに二層の一の門があり、足軽番所を置いて警備をしていた。 その西方に二の門があり、そこから 外堀の穴門橋(木橋)を渡って、通町方面へ通じていた。 一の門は、当初湊城の門を移したものであったが、 安永5年(1776)の外町の大火で類焼した。その後再建されたが、 維新後取り壊された。 (秋田市の標柱より)
(左)穴門一の門跡。二の門方面を。 (真ん中)穴門一の門跡から東方面。渋江氏の屋敷横の クランクが見られる。
(右)一の門から西側の穴門橋跡付近。 穴門がある通りは、佐竹小路。佐竹って名前が 付いているのがいい感じ。
松下門跡&駐車場
中土橋方面からの二の丸の入口に位置する。 藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、 土崎、城下町中央部に近い松下門側もおおいに利用された。 門の周囲の縄張は、初代義宣自信が手がけた自慢の設計 であったと伝えられる。 (秋田市の標柱より) (左)唐金橋跡から松下門跡方面。 (真ん中)門跡から逆を。 (右)松下門跡を上がると有料駐車場。 でも、路駐が多い。
鐘楼(千秋の鐘)
千秋公園の時鐘は、寛永16年(1639)2代藩主・ 佐竹義隆の時代に久保田城二の丸の東側 (現・佐竹史料館の後ろ)に、鐘楼を創設したのが始まりである。 その後、慶応2年(1866)に、これまでの 鐘は改鋳されたあと時代の変遷と共に、 幾たびかの移転を経て、現在の千秋公園霊泉台 下に建設されたものである。(記念碑より抜粋。)
二の丸 安楽院・勘定所・境目方役所跡 時鐘跡
本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、 内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・ 安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、 特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として 利用された他、能や踊りの見物のために町人に開放される こともあった。 現在の佐竹史料館付近の一画は、二の丸の東南部にあたり、 安楽院・勘定所・境目方役所が置かれていた。 安楽院は、宝鏡院を本寺とする、佐竹氏の祈祷寺であった。 勘定所は金銭出納等を、境目方役所は国境の調査、 図面の作成等を行う役所であった。 (秋田市の標柱より)
 (右)裏側だからこの辺りかな?
黒門跡
(左)正面が二の丸で、右折れに。 (真ん中)二の丸から黒門まで、 クランク状になっている。 (右)両側に礎石が♪
黒門跡&唐金橋跡&内堀
(左)土塁上から見下ろして。写真右側に進むと、唐金橋跡へ。 (真ん中)黒門跡から東へ進むと、 唐金橋跡へ。
丁度、歩道の雪の融解の工事中で、 配線が埋め込まれていた!さすが、雪国! (右)唐金橋跡横の内堀。

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