秋田県 湯沢城 |
■湯沢城=見学自由 ■中央公園 駐車場=?(案内板ではある。) (2010.9.25現在) (写真)本丸。左に立つのが、帯屋久太郎歌碑。 |
住所=湯沢市佐竹町 この時は、国道398号を湯沢横手道路方面へ進み、 湯沢北高校の前の信号を左折、 湯沢市役所方面へ南下。右カーブの左側に 名水の力水があって、その付近に登城道がある。 この付近に、公園用の駐車場が見当たらなかったので、 登城道に続く坂道に、自己責任で路駐した。 南側の駐車場はスペースっぽく見えたけど、 違う所にあったのかな? |
湯沢城 | ||
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湯沢城は鎌倉時代後期、小野寺氏によって稲庭城の支城として 築かれたと伝えられる。小野寺氏は後に雄勝、平鹿の二郡を 領有する戦国大名となるが、その成長過程で湯沢城の果たした 役割は大きい。しかし、文禄4年(1595)城主・小野寺孫七郎(まごしちろう)の時、 最上氏の軍勢に攻め入られて落城し、以後最上の武将・楯岡(たておか) 豊前守満茂(みつしげ)が城主となる。 (※赤尾津(亀田)の地に入ると赤尾津氏、本荘に移ると本城氏と名乗る。) 関ケ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田転封にともない、 佐竹南家三代義種が湯沢城代となる。 義種は城の整備を図り、住居と役所を兼ねたお屋敷を麓に構える。 元和6年(1620)山上の城は、一国一城令により破却される。 やがて、城址はお城山と呼ばれ、また、御屋敷の跡に小学校が 建てられたことから、裏山である中央公園は学校山と呼ばれ親しまれている。 (湯沢市議会の案内板より) | ||
中央公園 | ||
湯沢城がある中央公園。この近辺に、駐車場が見当たらなかった(^^;)
力水を利用する車は、力水付近のスペースや 城址入口の坂道にとめていたので、うちも坂道に…(^^;)(←自己責任で。) 北側の水路には、鯉が泳いでいた♪ |
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湯沢城の北側 | 力水 | 屋敷跡 |
(左)北側の力水付近の案内板の一部分。
湯沢の名所を案内しているので便利♪
説明文が方言なので、楽しい。
(真ん中)御用水で、体に力がつく水だと、 特に殿様が愛用されたといわれていたそう。 次から次へと汲む人が! (右)左の写真の中央の緑の丸の辺りが、佐竹の殿様の屋敷跡。 この道路を御屋敷線と呼ぶそう(^^) |
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力水からの登城道 | 佐竹南家の門 | 道中を見下ろして |
南側の登り口が見つけられず、力水側から登る。
すると、すぐに移築門が。ポツンと少し不自然な感じ(^^;) その後、どこまで続くの!?って思うくらい、九十九折の道を 登る!旅行の最終日だったから、余計にきつかった(^^;) |
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二の丸へ | ||
(左)あ、案内板だ♪…と思ったら。 (真ん中)まだ階段が続いてる!愕然(@@)! (右)上がり終えて、振り返る。 | ||
(左)二の丸と本丸方面との分岐点。 (真ん中)本丸方面側から二の丸方面を。 (右)ここを上がって二の丸へ。 | ||
二の丸 | ||
二の丸は、この東方奥に位置し、広さは約36m四方で、城の東北端に位置 していたことから「北の砦」と称された。三方崖に囲まれ、自然地形を利用 した曲輪が連なっている。本丸を中心とした城郭部分とは、幅4m、深さ7mの 堀切で分離されていたため、北方からの侵入を防ぐ重要な役割を担った。 (まちづくりボランティアプロジェクト400(財)東北地方郵便局長協会の 案内板より) 悠長なことを言っている場合じゃなく、先へ…(^^;) |
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大堀切 | ||
(左)二の丸と本丸を中心とする曲輪との
大堀切。
(真ん中)二の丸側から。くねくね道の間。
(右)本丸側から。 ここは、裏門(左の写真=正面の道)と細小路(背後)への分岐点でもあるけれど、 道としては厳しいような…(^^;) |
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本丸方面へ | ||
大堀切を見つつ、本丸方面へ。 地道に、地道に進んで…。また長い階段かっ!! と、言わずにいられない(^^;) | ||
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