根城
(小さい案内図をクリック→拡大)
|
根城は、建武元年(1334)南部師行(もろゆき)により築城されたと
伝えられている。根城の南部氏は、南北朝時代には奥州における南朝方の
中心的な存在として活躍しており、その領地は、当時糠部(ぬかのぶ)郡
と呼ばれた広大な地域の中や津軽、秋田県の比内・仙北・鹿角、岩手県の
閉伊、遠野にも認められる。
しかし、南朝方が劣勢になるに従い、根城の南部氏も次第に
勢力が弱まり、寛永4年(1627)には岩手県の遠野へ
移封となった。
この城跡は、昭和16年12月13日に国史跡に
指定されている。(指定地総面積212.795u)
現在、根城には、本丸・中館・岡前館・東善寺・
沢里館等の郭や多くの堀が良港に残っており、このうち、
本丸については、発掘で発見された建物跡を基に立体
復元も行われている。(八戸市教育委員会の案内板より・地図も)
|
八戸市博物館&南部師行像 |
駐車場 |
|
|
|
旧八戸城東門 |
|
|
この門は、八戸城の東門で安政
6年(1857)の大風のため倒れ、
家臣の木幡氏の門として建て替え
られた。伝承によればもともと
根城にあった門を八戸城に移した
といわれている。(案内より)
(左)表側。(右)内側から。
|
薬草園 |
|
根城南部家が岩手県の遠野へ移封された後の
様子を伝える「遠野古事記」には、城の中に
薬草になる植物が植えられていた記録が残されている。
西洋医学が伝わる以前は、身近にある植物などを利用し、
病気や怪我の治療が行われていた。
ここには、この地方に自生する植物を含め、
古くから伝わる代表的な薬草を植えている。
(案内より)
|
堀跡 |
|
堀は、地面を深く掘り込み、敵の侵入を防ぐ為に造られたもの。
この堀は、本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字形の空堀で、三番堀
とともに城の東側を守る重要な施設。また現在博物館のある
東構地区から、発掘調査で屋敷跡がみつかっているので、
この地区も、根城の城内に含まれると考えられる。
(案内より)
|
実のなる木&鑑賞の対象となった木について |
■実のなる木…城の中には、籠城に備え、普段から食糧が蓄えられてきた。
籠城が長引き食糧が尽きた時は、あらゆる草・木も食べ
なければならなかった為、城には実のなる木が必ず植えられていたと
考えられる。発掘調査で出土した種子の鑑定結果を
基に、籠城に備え植えられたと考えられる「実のなる木」を展示している。
(案内板より)
■鑑賞の対象となった木…
中世の城跡の中で、堀や井戸跡等の様に水が湧き出す所を発掘すると、
樹木等が腐らずに発見される事がある。これらの中には、桜や松等が含まれていることから、
武将達が木々の花や枝ぶりを観賞していたと考えられる。
なお、城内のしだれ桜は、根城南武家の初代当主「南部実長(なんぶさねなが)」が
手厚く保護した日蓮宗の総本山「久遠寺」にある見事なしだれ桜の古木に倣って
植えたものである。(案内板より)
|
通路跡 |
|
この通路は、堀を埋め戻した上に砂利などを敷いて造られた。
通路は中央部で広がり二手に分かれるが、この分岐点から中館側(左手)
は、掘立柱建物や溝などに壊されており、通路として使われなくなった事が
わかった。もう一方の通路は、下町方向にのびると考えられる。
通路の発見は、根城では初めての貴重な例。
(案内より)
|
堀跡 |
この堀は、幅が狭く傾斜が急なV字形の空掘。
発掘調査で堀が発見された為、中館の東隣に、他の
郭より一段低い三角形の郭があることが分かった。
ここを何と呼んでいたか、全く記録や伝承は残されていない。
その後この堀は埋められて通路が造られたりしており、
三角形の郭の性格も変化していったと考えられる。
(案内より)
(右)左&真ん中の写真の堀跡の反対側にも堀。
|
|
|
|
堀&通路跡付近 |
中館跡 |
中館を見渡す |
凄くきれいな緑!管理をしている人達の気持ちが伝わってくる(^^)
それにしても、本当に広かったな〜。
|
|
|
|
本丸と中館の間の堀 |
本丸方面 |
城址碑 |
(右)道路側にある石碑。後ろに写るのが本丸の建物。
ちなみに、道路を挟んだ敷地に、岡前祉の石碑がある。
|
|
|
|
根城模型 |
城祉碑近くから見える岡前祉碑 |
|
|
|