三戸城 |
三戸城の築城年代については、現存する資料に
確かな記述を見ることはできないが、伝承によると
三戸南部氏の居城であった聖寿寺館が、天文8年(1539)に
家臣の放火により焼失、その後三戸に居城を移したと言われている。
三戸城は馬渕川と熊原川との合流点に位置し、
標高約130m、広さ約40万u(10万坪)。
築城年代は、永禄年間(1558〜70)、24代南部晴政時代である。
26代南部信直は、天正18年(1590)小田原に参陣、
その功により豊臣秀吉より、南部七郡(糠部・岩手・紫波・稗貫・
和賀・閉伊・鹿角)領有の公認を受け、これにより南部氏の
近世の大名としての基礎は万全となった。
南方に領土が広がり、三戸の位置は領内中央で無くなり、
慶長2年(1597)盛岡に築城、漸次移住、寛永10年(1633)より、
盛岡城だけを居城と定め、三戸城は御古城と呼ばれ、
城代の統治と代わった。(案内板より)
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大手門跡 |
三戸城址碑 |
城山公園 |
城山公園入口からすぐ大手門跡、城址碑がある。
城址碑の後に続く遊歩道は工事中で、ブルーシートが(^^;)
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物見櫓跡 |
綱御門の下の方の石垣 |
綱御門下の土塁 |
もう少し上がると、道路右側に物見櫓跡。反対側の石段を上がると、
いい感じに石垣が♪そのすぐ先に綱御門。
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綱御門 |
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綱御門とは、般若心経を読み、城の安泰を祈願した
綱(心経綱)を掲げた門のことである。
これによってもこの門は、三戸城にとりいかに重要な門で
あったかを、知ることができる。
門を入って鳩御門に向かう途中、道を挟んで南北に
武者溜があった。武者溜は綱御門の守備兵の控所のあった
ところである。この綱御門及びこれに続く石垣は、
平成元年のふるさと創生事業で建てられたものである。
(三戸町の案内板より)
(下真ん中)瓦には、南部氏の紋が(^^)
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綱御門 |
武者溜跡(綱御門側) |
綱御門をくぐっていくと、両側に武者溜跡が(^^)
綱御門側の武者溜跡は、土塁向こう(右の写真)にまで続いていた。
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武者溜跡 |
鳩御門跡 |
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綱御門は、三戸城第一の要衝で
あり、石垣で厳重に防衛されていた。
綱御門の守備兵の詰所を武者溜と
呼んでいる。城内で、武者溜の設け
られているのはこの一郭だけである。
これを見ても、綱御門は三戸城の命
運を担う、いかに大事な城門であった
かを知ることができるであろう。
(右)鳩御門跡に転がる石は遺構?
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目時筑前邸跡 |
桜庭安房邸跡 |
北左衛門佐邸跡 |
鳩御門跡を過ぎると屋敷跡が続く。この辺りになると、ちょっと薄暗い。
高い土塁の上に案内棒がある所も(^^;)
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医者屋敷跡 |
石亀城・石亀七左衛門邸跡 |
東彦左衛門邸跡 |
どんどん上がって行くと、石亀城・石亀七左衛門邸跡が。
そこには鹿園がある(^^)この鹿が可愛いんだ〜♪
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三戸城石碑 |
欅御門跡 |
石井伊賀守邸跡 |
鳥居の近くには、なぜか字の部分がずれてる城址碑が。
欅御門跡近くに石井伊賀守邸跡。他、北方面にも跡がある。
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庭園 |
空堀(右側&左側) |
空堀はどこかなぁ?と結構ウロウロ。空堀の案内棒を見つけ、
ヒョイと見ると空堀が!なかなか大きくて素敵!
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御鷹部屋跡(祥鷹閣) |
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御鷹部屋とは、鷹狩りに用いる鷹を飼育した場所である。
北国である奥州の鷹は俊敏、強健だといわれ、上方での
評判は高かった。
将軍などへの贈物として、鷹は南部駒と共に非常に喜ばれていた。
三戸では梅内字滝地内の断崖(目時の東裏にあたる)等で
鷹の子を取り、この場所で鷹匠が飼い、育て鷹狩りの訓練を
行い、優れた鷹に育て上げた。(三戸町の案内板より)
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