南部彦九郎政直邸跡 |
南部彦八郎利康邸跡 |
おまけ |
この屋敷跡付近に、温故館・資料館(^^)
ここにあったわけじゃないけど、愛嬌のあるペンギン親子を。
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温故館・資料館 |
子持石 |
■三戸城とリンゴ…
26代南部信直時代、文禄4年(1595)頃、三戸城内に
梅林と共にリンゴの木もあったことが推定される。
同年8月の信直より長女千代子(根城南部19代八戸直栄夫人)
宛の書簡に「・・・・・リンゴはあをく候間こさず候・・・・・」
とあるのはその証である。
リンゴといっても現在のリンゴとは違い、リンキンなどと
呼ばれる昔リンゴのことであろう。
約400年前のこのリンゴの記録は県内最古の記録と思われる。
三戸は優良なリンゴ生産地として有名であるが、
これも古い歴史と古緒を持った土地柄だからといえる
ことであろう。(案内板より)
現在の三戸城温故館は、御三階モデルとなっているとか(^^)
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山梨県南部町は、南部藩祖南部三郎光行公の
故郷である。この石は、その南部町を流れる
富士川より採取された緑色凝灰石の一種で、
子持石と呼ばれている。現在は、採石禁止で
希少価値の高い銘石。
子持石の由来は、石の中に石が生じ、あたかも
赤ん坊が出来た如く見えるからである。
心を込めてこの石をなでると、子宝に恵まれると
いわれている。(案内板より)
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切れ目から太鼓櫓跡方面 |
大御門跡 |
太鼓櫓跡 |
温故館・資料館から土塁の切れ目へ。この先に太鼓櫓跡。
(車で上がってくると、駐車場へ入る手前右側。)
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本丸 |
城内の東寄りに位置し、北に谷丸・淡路丸がある。
中央は藩主の居城地(現売店・駐車場)で、北西は
御鷹部屋、北東は諸役所地(現・イベント広場)である。
谷丸に面する穴御門の石垣上に鯱を飾った三層の
隅櫓が描かれている。(三戸教育委員会の案内板より・絵図も)
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御姫様御殿跡 |
諸役所地跡 |
搦手門跡 |
駐車場も本丸跡で、搦手門跡に向かう間にも広い敷地が広がる。
こんな感じ(=左上の古絵図)だったんだなぁ〜。
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上段御馬屋跡から搦手門跡 |
上段御馬屋跡 |
搦手門跡の案内が草に埋もれてて、もう少しで見落とす
ところだった(笑)そして、細長い形の上段御馬屋跡へ。
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鶴池 |
亀池 |
高清水 |
鶴池・亀池の広場は本丸より一段低い広場である。
搦手口(裏門口)の鍛冶屋御門より本丸に至る要路にあたる。
鶴池・亀池は水堀の役を非常に際しての貯水池、
更には庭園美のために設けられていた。
池の水源は、湧水が用いられていて、現在も湧き出している。
この広場には藩主の乗用馬を飼育した上段御馬屋と御馬飼料蔵も
あった。池の東北方には、300石奥瀬与七郎の屋敷もあった。
この屋敷の下方には鍛冶屋御門があるので、奥瀬氏は、
鍛冶屋御門警備の命をもうけていたのかもしれない。
(三戸町の案内板より)
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本丸(淡路丸) |
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本丸の内は築地により、2つの区域に仕切られていた。
藩主居住区と役所関係施設区の2つの区域である。
藩主居住区には千畳敷・大書院・御居間・御奥・
御姫様御殿・御大物蔵(金蔵)・御数寄屋等が
設けられていた。役所関係区域には、御勘定所・
御武器蔵・御米蔵・御台所等の施設があった。
この2つ区域の中間に、屋根に鯱を飾った三層の櫓が
あり、御三階と呼ばれていた。傍らに穴御門があり、
谷丸からも入れるようになっていた。
御三階は隅櫓であるが、現在の三戸城温故館の
モデルとなっている。(案内板より)
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奥瀬与七郎邸跡 |
鍛冶屋御門跡 |
■鍛冶屋御門跡…
搦手口(裏門口)を守る重要な門であった。
ここの石垣の石は網御門等と比べてやや小さめである。
しかしその石組は、網御門より古いとみられている。
石垣の保存状態も比較的良好である。
鍛冶屋御門外の留ケ崎地区は三戸地方豪族たちが配置されていた。
大光寺喜伝次・石井長七・泉山作之丞・泉山作兵エ・
田中与五兵エ・蛇沼惣左エ門・玉掛伊五右エ門・雇地
小五郎・川守田伝内・田鍍次郎左エ門・志村四郎左エ門等の
屋敷が建ち並んでいた。(案内板より)
草が茂り過ぎだ!
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鹿園 |
愛嬌があって、じ〜っと見てくれる子が(^^)
つぶらな目が可愛い〜♪
右は、我関せずって感じの子の頭。フサフサ!
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