■眼下に広がる関門海峡は、1日七百余隻が通過する国際航路であるが、 日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。 寿永2年(1183)栄華を極めた平家も衰えを見せ、永年勢力を争った源氏の木曽義仲に 追われ京都を逃れた。平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、 平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった緒方三郎惟義(これよし)の 裏切りにあい、やむなく筑前の太宰府天満宮に入った。しかし、ここも安住の地ではなく、 遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠(やまが ひでとお)と香月(かつき)の 庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、 安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里) に上陸した。
ここに内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、分限なかりければつくられず、
又長門より源氏よすと聞こえしかば、海士の(あま)の小舟にとりのりて、海にぞ
うかび給ひける。平家物語
■平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には 安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、 もはやその力も無く、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、 瀬戸内海を東へ逃れた。 東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島 で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した 源氏と関門海峡で対峙した。
源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。源氏の勢はかさなれば、平家の
せいは落ぞゆく。
元暦二年三月廿四日の卯剋に、豊前の国門司、赤間の関にて源平矢合とぞさだめたる。
すでに源平両方陣をあわせて時をつくる。上は梵天までもきこえ、下は海龍神もおどろくらん…
平家物語
■寿永四年(元暦二年、1185)三月廿四日卯の刻(午前六時頃)、 早鞆(はやとも)の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。 四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。 当初平家が優勢と見られたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、 四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法 により、その日十六時頃、平家の敗北は決定的となった。 平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼(にいのあま)は、もはやこれまでと、 御座船から八歳の幼帝をいだいて「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と 海中へ身を投じた。帝の母建礼門院(けんれいもんいん)もこれにつづいて 入水、平家の武将も次々と身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。 「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」五年間におよぶ 源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。
■この壁画は、眼下の海峡で繰り広げられた源平の合戦図であり、赤間神宮の 社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いたものである。
■壁画中央の御座船に安徳天皇、建礼門院、二位尼の姿がある。
御座船の左上、波間に浮ぶ女性は建礼門院。救われ京都に送られ尼となる。
御座船の右手、海上を飛躍する武将は源義経。平家の猛将平教経(のりつね)に
追われて船八艘を跳んで逃れる。
世に義経の八艘跳びという。
いるかの群が見えるのは、いるかの様子で吉凶を占ったことによる。
※平家物語は日本古典文学大系より抜粋。(北九州市の案内板より)