ふくおかけん なじまじょう
■名島城=見学自由
■名島神社、名島城址公園
開園時間=9時〜19時(4月〜9月)、9時〜17時(10月〜3月)、夜間入場禁止
駐車場=神社用の臨時駐車場(有料)
2015/7/5現在
住所=福岡市東区名島
この時は、都市高速1号香椎線を北上、名島出口を下りて、案内板に従って左折。
道なりに進むと右側に名島神社。
縄張り図をクリック→拡大。
天正16年(1588)、九州を平定した豊臣秀吉は、この地に城を築くよう小早川隆景に命じ、
名島城を九州守護の拠点とした。慶長5年(1600)には福岡藩初代藩主黒田長政が入城したが、
福岡城の築城に伴い廃城となった。また、名島神社は当初、神宮ヶ峯(じんぐうがみね)山頂にあったが、
築城の際に現在の場所へ移された。江戸時代までは名島弁財天社と呼ばれていたが、
明治維新の神仏分離令により、現在の名島神社となった。祭神は、宗像三柱姫大神(むなかたみはしらひめおおかみ)である。
■名島城と小早川氏…城には多々良川河口の丘陵東側から三の丸、二の丸、水堀を挟み、長天守台、西端に本丸の各曲輪を連続して配置し、
南側には河口から続いて東西に長い水堀が設けられた。城の規模は東西約750m、南北250〜400mで、
陸続きとなる南東側に城下町が置かれた。築城後、秀吉による文禄・慶長の役(1592〜1598)が始まり、
隆景は家臣を率いて、天正20年(1592)に朝鮮へ出兵(唐入り)した。その間、名島城は、
唐入りの軍事的拠点である名護屋城への軍事・生活物資や人材等の補給基地としての役割も担った。
帰国した隆景の養子として迎えられた小早川秀秋(1582〜1602)が、文禄4年(1595)に新たな城主となり、
隆景は備後国三原に隠居した。秀秋が慶長の役に出兵した慶長2年(1597)6月に隆景は、三原でその生涯を閉じた。
慶長5年(1600)には、関ケ原の戦いの勝利に貢献したことから、秀秋は備前国岡山に移り、
新たに豊前国中津から黒田長政が入国した。長政は翌年から福岡城の築城を開始した際、
名島城から建造物や石垣を解体して運んだといわれている。これは、「名島引け」といわれ、
黒田家菩提寺である崇福寺の唐門や福岡城に移築された名島門、
名島城の搦手門と言われている宗生寺の山門にもその言い伝えが残る。(福岡市教育委員会や福岡市の案内板より・名嶋古城図・縄張図も。)
【左】遠景。白い建物はトイレ。公園には無いのでここで。
【真ん中&右】名島神社の鳥居と石段。
【左】名島神社。
【真ん中】左の写真の石段手前の左側。2011年と同じくブルーシートが敷かれていた。
【右】左の写真の石段手前の右側。土塁かな?
【左&真ん中】境内。魚の石碑が置かれていた。
【右】待合所かな?と近付いたら、木が建物を通過して立っていた!
【左】名島城址公園の碑が立つ階段を上がって公園へ。
【真ん中】階段から振り返って。
【右】夜間は入場禁止。大手側の入口も同じくフェンスの扉あり。