【左】名島城址公園の注意事項の案内。好きなイラスト♪
【真ん中】臥龍桜。
【右】左側が本丸西側、奥が北側。
本丸南側。【真ん中】名島城跡の碑と小早川隆景公の碑。
本丸南東側。
【左】大手石垣遺構が上から見ることが出来る。
【真ん中】ここからは出入りできない。
【右】現在地。
本丸東側。【左】立花山城がチラリ。【右】不断梅の碑。
本丸西側〜北西。【パノラマっぽく加工】右端が隅櫓跡。隅櫓跡の手前が低くなっていた。
北西隅の突き出した曲輪上に築いた隅櫓跡。 列石で囲んだ内側に礎石を置き、小石を敷き詰めて櫓台を築く。 規模は南辺4.9m以上、東辺4.2m以上である。 列石上に壁が建っていたと考えられ、外側から多量の瓦が出土した。 突出した曲輪上に築いた瓦葺きの隅櫓は近世城郭の技法を取り入れたものである。(案内板より)
【左】側面の石垣♪ 【真ん中】隅櫓横の低くなった所を隅櫓跡から。 【右】隅櫓跡からの景色。
【3枚】隅櫓跡で見かけた飛行機や鳥(^^)
【左】(パノラマっぽく加工)本丸から大手口へ。
【右】写真中央の右上の土塁上と反対側に大手口の石垣がある。
名島城は、「名島の城の石壁樓等悉く崩して福岡に運漕せり」(『筑前国続風土記』) の記事に代表される、いわゆる「名島引け」の伝承や近代以降の開発によって、 当寺の痕跡をとどめていないと長く信じられてきた。しかし近年の発掘調査により、 城の構造や内容を解明する様々な手掛かりが得られている。 平成20年(2008)に実施した第6次調査で、石垣の大半が発掘された。 これらは、主要登城口である大手口を構成していて、下段の石垣の横を通り、 上段の南北方向の石垣を正面に上がって本丸へと登城したと推測されている。 石垣は南北方向に約19mのび、南端で「L」字状に折れて東西方向に7m以上続くことが判明した。 これらの石垣の前面は整地され、側溝が設置されていた。 また、本丸から一段下がった箇所に通路が存在する事や石垣の上に瓦葺きの建造物があったことも分かった。 発掘された多数の礫や大きな石の状況は、福岡城へ石垣を運び出す際に裏込石が流出した結果か、 名島城廃城にあたって城を意図的に破壊した行為と考えられる。 関ケ原の戦い以前の織田信長から豊臣秀吉の時代の石垣や瓦葺き建物などを特徴とする城は織豊系城郭と呼ばれ、 その後各地の近世城郭の礎となった。この名島城もその1つで、九州では名護屋城や中津城、 麦島城など数例しかない。加えて名島城では大手口が残っており、極めて貴重な城郭である。 (福岡市教育委員会の案内板より)
【左】見上げて。【右】本丸南側から見下ろして。
【左】道を挟んだ側の下段の石垣。
【真ん中&右】公園入口。土塁が続いていた。
【左】大手口側から下りた所。写真右が城山道。写真左が真ん中の写真。
【右】大手口側の坂は出入りができるけど、石段は施錠されて上がれない。