ふくおかけん たかおじょう
■鷹尾城
■鷹尾神社、安房神社(説明板)、白峯神社、琴平神社
駐車場=無し
(写真)安房神社と鷹尾城の説明板。
2015/12/28現在
住所=柳川市大和町鷹ノ尾
この時は、県道714号と県道83号との交差点から県道83号を南下。
六合小学校を過ぎて南下、鷹尾神社前信号の西側が鷹尾神社。
鷹尾神社前信号を東へ進み、次の交差点(因福寺の北東)を右折、南下すると右側に安房神社、そのまま南下すると白峯神社がある。
因福寺の北東の交差点を過ぎて東の左斜めの道へ進むと、琴平神社の左カーブの所に、鷹尾城主 田尻親種墓碑の説明板(古め)が立っていた。
墓碑の所に、新しめの説明板が見えた(※琴平神社付近の道は狭い)。
鷹尾城は、近世初頭の典型的な平城で、この地方の国人領主田尻氏の本城だった。 田尻氏の居城は、平安・鎌倉時代より三池郡田尻山の飛塚城だったが、風水害で要害が悪くなったために、 天文17年(1548)、田尻親種は、大友義鑑の許可を得て鷹尾に築城した。 本丸の規模は、東西26間(約47m)、南北10間半(約19m)だった。 規模は、永禄3年(1560)に築かれた江ノ浦城は津留・浜田・堀切の城を支城とし、これを鷹尾五ヶ城という。 戦国期の筑後は、大友・龍造寺・島津の三氏を中心に激しく動いた。 元亀元年(1570)、親種は大友氏の軍に従い、龍造寺氏の佐賀城を攻めて重傷を負い、鷹尾に帰り、城中で死んだ。 天正の初年以降、西北九州における大友氏の勢力が後退すると、親種の子・鑑種は、 次第に龍造寺氏に近付き、天正9年(1581)、隆信の命により柳川城・塩塚城・佐留垣城を攻め、蒲池氏の一族残党を滅ぼした。 しかし、翌10年、鑑種は、龍造寺氏に背いて鷹尾城に立て籠もり、島津氏に援軍を頼んで戦ったが敗れ、同12年2月、肥前佐嘉郡巨勢(さがぐんこせ)に移された。 隆信の死後活発となった大友氏の動きに対抗し、同年9月18日、龍造寺直茂は、鑑種を筑後境目勤番に命じ、再び南筑後の経営を任せた。 しかし、同年、大友方の戸次道雪(べつきどうせつ)・高橋紹運(じょううん)によって鷹尾城は落城した。 天正15年(1587)、秀吉の九州平定後、立花宗茂が、柳川城に入り、家臣立花三左衛門尉を鷹尾城番とした。 慶長6年(1601)には、田中吉政の家臣・宮川才兵衛が鷹尾城番として6000石を領有したが、元和元年(1615)、 幕府の「一国一城令」(一大名に一つの城)によって鷹尾城は廃城になった。 本丸は、現在地(※)より約30m南に、北の丸は、田尻親種の墓(約300m北東)の近くにあったようである。 (※安房神社にある大和町教育委員会の説明板より)
【左】因福寺の南東に位置する安房神社へ。
【真ん中】安房神社の境内に鷹尾城の説明板がある。ここから約30m南が本丸らしい。
【右】安房神社から南下した所の水路。
【左】鷹尾神社から南下して、東側にある白峯神社。写真左手前側に、菊池氏一字一石塔がある。
【真ん中】鳥居から西側の水路。
【右】鳥居から東側の水路。
白峯神社境内。とても静かだった(^^)
白峯神社周りに水路が巡らされていた。
【左】白峯神社の所にある菊池氏一字一石塔。
【右】正一位稲荷大明神の右奥に、菊池氏一字一石塔がある。
■菊池氏一字一石塔…天正の頃(1573〜91)、島地区は、矢部川河口の島で、有明海の波打ち際に位置していた。 葦の生える海岸一帯を拓き、島堀切村数十歩(ヘクタール)を開拓したのは、米良信之(めら のぶゆき、島信之)という人である。 この一字一石塔は、島信之より三代目の島信家(十右衛門)が若宮神社に四十八夜の読経をつとめて建立したものである。 平石の自然石の表面に梵字を刻み、平石の下に供養のため、法華経の字を一字ずつ書いた小石六三八三九石を埋めている。 島信家は、篤い仏教信者で、祐慶(ゆうけい)と号した。 島氏は、もともと肥後国隈府(現在の熊本県菊池市)の城主菊池氏の一族だが、 戦国動乱期に、日向国米良郷(めらごう、宮崎県児湯郡西米良村)で米良氏を名乗った。 そして、島に来て島氏と改め、明治になって菊池の旧姓に戻した。 米良氏・菊池氏・島氏は、みんな同族である。(大和町教育委員会の案内板より)
【パノラマっぽく加工】土手から見下ろして。説明板によると、この辺りが北の丸のよう。写真左側に、琴平神社、鷹尾城主 田尻親種墓碑の説明板がある。 墓碑は、赤い車の所だけど、見に行かなかった。
【左】パノラマっぽく加工した写真の右側。なかなか高い。
【真ん中】写真左側が矢部川で、右側が、鷹尾城主 田尻親種墓碑の説明板がある琴平神社。
【右】矢部川に架かる泰仙寺橋。
琴平神社にある説明板は古いみたい。今回は墓碑まで行かなかったけど、遠くから見ると、墓碑の所にも説明板があった。
指定 昭和53年11月14日
所在 大和町大字鷹尾字築山(通称 城の畑)(現在地より北100m堤防沿い)
寿永の頃(1182〜3)、筑紫の太宰大監を勤めた原田種成という人に五子がいた。
種成の長子種直が原田氏を継ぎ、次子種雄、三子種実、四子種良、五子五郎は、それぞれ秋月、田尻、江上、高橋各氏の祖となったという。
三子種実は、三池庄田尻に居住し、田尻三郎と称した。爾来(じらい)この地方を本拠とし、文永、弘安の役には、戦功によって薩摩国鹿児島郡に所領を給付されている。
応仁、文明の頃(1467〜1486)以降、豊後の大友氏の傘下にあって次第に所領を拡大し、遠江守治種を経て、その子伯耆守親種の時に鷹尾に本城を構築し、
山門・三池二郡に跨る数百町を領有した。元亀元年(1570)5月、田尻親種は、大友氏の軍に従い、龍造寺氏の佐賀城を攻め、重傷を負い帰城、6月23日に逝去した。
城址にたつ親種の墓は、「大墓さま」と呼ばれ、高さ五尺(1m50cm)の自然石の表面に
寔元亀庚午年 松本市郎兵衛(言+菫)立 捐館前伯州守大倫竜(喜の下の口の上部分が突き通った字)大居士神儀
六月廿三日 田尻源親種 の文字がかすかに読まれる。
附記 大和町教育委員会
宮地嶽神社 由緒不詳。
聖母宮 安永7年(1778)建立、神功皇后(腰掛石)を祀る。
観音堂 文亀3年(1503)
田尻氏の臣溝口武資(みぞぐちたけすえ)が堂宇(どうう)を建立。
琴平神社 文化13年(1816)8月、宮社再建。同年9月3日、現地に遷宮。
恵比須神の祠 明治17年(1884)建立。
若宮の祠 由緒不詳。
水天宮 由緒不詳。(大和町教育委員会の説明板より)