トロとまったり・tripのページ(鷹尾城 その2)

鷹尾神社

■江波大納言家紀公昌卿霊位… 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする鷹尾神社は、貞観11年(869)清和天皇の勅宣によって建立された南筑後有数の古社である。 鷹尾家系図によりますと、康和元年(1099)、堀河天皇の宣下により、江波大納言の男少将紀朝臣公昌が、鷹尾神社の大宮司職として京都からこの地に下ったと伝えられている。 鎌倉初期に、正大宮司として鷹尾別符の政所職をも兼務した紀元真(きのもとざね)は、初代公昌の系譜を引く人で、以後、紀家は、子々孫々大宮司として勤仕した。 文政9年(1826)、三柱神社(三橋町高畑)の建立に伴い、三河守公春は、その社職として高畑に移り、「紀」姓を「鷹尾」姓に改めている。 (大和町教育委員会の案内板より)

【右】矢部川側から鷹尾神社方面。

■鷹尾神社石鳥居…鷹尾神社は、平安時代の貞観11年(869)に、清和天皇の命によって祭られたと社伝に伝えられる格調高い神社である。 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とするこの神社は、もともと、鷹尾郷の郷社と考えられ、平安末期には、 筑後一の宮高良神社の別宮として、京都の待賢門院を本家、徳大寺大納言家を両家とする瀬高下庄の鎮守だった。 源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年6月、 鷹尾郷には、藤原家宗が地頭として任命されている。 文治5年(1189)、鷹尾郷の地が、待賢門院の御願寺である京都の円勝寺領の鷹尾別符と呼ばれるようになっても、 鷹尾神社は、下庄の鎮守であったのである。 社の造営・修造は、朝廷および鎌倉幕府・執権・室町管領、鷹尾城主田尻氏、柳川藩主立花氏等の下知(命令)によって行われ、 南筑後有数の社として栄えている。 例祭には、流鏑馬・神幸・風流(破牟耶舞)の行事がある。 鷹尾神社古文書三巻は、昭和52年4月9日に、県の重要文化財に指定された。 境内には、神功皇后行啓遺跡・神功皇后腰掛石・牛の宮があり、鳥居は、貞享元年(1684)に、藩主立花鑑虎によって寄進されたものである。 (大和町教育委員会の案内板より)

石鳥居(鷹尾神社東側)の所の水路の中に、鯉がたくさんいて癒された(^^)

【左&真ん中】立派な楼門。
【右】石鳥居側から東方面。右前が因福寺。 この先から左斜めの道へ進むと、鷹尾城主田尻親種墓碑の説明板が立っている。

いろいろな角度で。

【左】牛の宮側に遊具もあって、子供との距離が近くて温かい(^^)
【真ん中】境内に鷹尾公民館もある。何でもありだな…。
【右】楼門方面。

鷹尾神社・牛の宮

牛の宮は、藤原氏の守護神で、祭神は、その祖天児屋根命である。 鷹尾神社の古文書「瀬高下庄領家公文所下文」に、「牛宮祭料二石六斗」とあり、 「建保4年(1216)閏六月十六日」の日付けと「前対馬守藤原朝臣(花押)」の名がある。 いずれの時か、九州に赴任した藤原氏が、この神社の境内に守護神として祭ったかと思われる。 昔、境内の大きな松に藤がまつわり咲き、それがあまりにも見事だったので藤原の姓を「松藤」に改めたと伝えられている。 この石の祠の奥の正面の壁には、次の様に刻まれている。
元禄八亥年 松藤五拾人與(ぐみ)
鷹尾別符  松藤三良兵衛
牛之宮 建立 藤原□(摩滅)次
松藤     松藤次兵衛
八月廿日  中嶋開
        松藤市左衛門
        村住聞共(むらじゅうもんども)
        五拾建余
元禄8年(1695)に、松藤の姓を名乗る「村住聞共」五十人與の者が、この石の祠「牛の宮」を建立したのである。 70年後につけられた石の扉には、「明和三丙戌歳(1766)十一月吉祥日」「松藤七十八人與」と下り藤の紋が彫ってある。 下り藤は、松藤家の紋であり、松藤姓の祖先の祠として、土地の人は、「松藤さん」と呼んでいる。 (大和町教育委員会の説明板より)

鷹尾神社付近

【左】鷹尾神社の東側の水路にあった九州北部豪雨の案内板。結構な高さの水位!
【真ん中&右】横断歩道の手前にいたカエルとパンダ(^^)

因福寺付近

【左】因福寺の北側の水路。
【真ん中】因福寺の北西から因福寺の西側の水路を。
【右】因福寺の西側の山門。

鷹尾城 2015.12.28記

安房神社の説明板、白峯神社、鷹尾神社、北の丸付近を見学したりと、見所が多かった。 でも、殆どが駐車場が無いので、だんにゃに車で待機して貰っての徒歩や車中からの見学も。 水路は昔のままなのかは分からないけど、鷹尾神社の水路に鯉が見られて癒された♪ 北の丸付近には、墓碑があるけれど、古めの方の説明板だけを写すだけで、見には行かなかった。 この北の丸付近の道が狭くてドキドキした(^^;) ちなみに見学時間は、のんびりと約23分(移動時間も含めて)。

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