トロとまったり・tripのページ(立花山城 その1)

福岡県 立花山城

ふくおかけん たちばなやまじょう

■立花山城(別名=立花城)=見学自由
■立花山
駐車場=無料駐車場(数ヶ所)
※立花山城のページでは、2015/1/2の写真も使用しています(表記あり)。

2014/1/2現在

住所=糟屋郡新宮町、糟屋郡久山町、福岡市東区
この時は、国道3号を南下、県道540号を東へ進み、立花小学校の前を通り、右側の六所神社を過ぎ、 「立花山登山道入り口」の案内を過ぎ、少し?結構?走ったその先の左カーブの右側に、 「立花山登山者用・駐車場入口」の小さな看板(見落とし注意)が立つので、そこを右折 (直売所の手前の道へ)。坂を上がって左側に駐車場。

立花山城

【左】新宮町役場経済課の案内板。
【右】小さい案内板をクリック→拡大。愛嬌のあるリス!(福岡森林管理署・新宮町の案内板)

立花城は南北朝時代、豊後(現在の大分県)大友氏の一族、大友貞載により築かれたと伝えられる。 貞載の子孫はこの城を拠点とし、立花を名乗るが、16世紀後半の鑑載(あきとし)の代に至り、 中国地方の毛利氏に与し、大友氏に反乱を起こして滅びた。 その後、豊後より同じ大友氏の一族、戸次鑑連(べっき あきつら…道雪)が入城し、 後にその養子、統虎(むねとら…宗茂)は立花の名字を引き継ぐ。天正15年(1584)に豊臣秀吉が九州を平定すると、 立花統虎は筑後柳川の領主として転出するが、新たに筑前国の大名となった小早川隆景の下でも、 立花城は名島城の支城として利用された。この時期に城を預けられた小早川の重臣、 乃美(のみ)宗勝の墓は下原の宗勝寺に残されている。 慶長5年(1600)黒田氏が筑前に入国した後、立花城は廃城となった。 立花山南麓の香椎は博多にもほど近く、中世を通じて大友氏の筑前国支配の重要拠点の1つであり、 立花城は度々戦乱の舞台となった。現在もなお、山頂から山腹一帯にかけて、 往時の城郭の痕跡を見出すことができる。(福岡市東区役所の案内板より)

立花山

【左&右】3号からの遠景。コブが特徴的な山だから、分かりやすい♪
【左】2015/1/2撮影。

■立花山の起源…立花山は昔、双神山(ふたがみやま)と言われた霊山であり、限界を航行する船や漁師の目標とされた。 立花山の由来は、伝教大師(最澄)が唐より持ち帰った樒(しきみ…モクレン科の常緑小喬木)の杖を立てかけたところ、 その杖から枝葉が生い茂ったことからと言い伝えられている。 玄界灘から立花山を眺めれば、山頂はラクダのコブの様な形をしており、 1番高い山は井樓山(せいろうやま…367m)で、その西に松尾山と白岳が連なり、福岡市下原側に大ツブラ、小ツブラ、 新宮町側に大一足、小一足と7つの峰があり、総称して立花山山塊という。立花山には、クスノキの原生林があるが、自然林の北限として、国の特別天然記念物に指定されている。 なお、伝教大師(最澄)は、この地を最初の布教地に選ばれ、中腹(新宮町側)に独鈷(どっこ)寺を建立されている。(福岡市東区役所・一区一美事業の案内板より)

立花山城・入口(登山者用)

【左】「立花山登山道・入口」の案内と「ようこそ立花山へ」。 この案内板の所も数ヶ所ある駐車場の1つ。 ちなみに、この入口の案内に素直に従ってみたら…。
【真ん中】道が狭くなり、直進は行き止まり!
【右】真ん中の写真の所で「曲がれる!?」と心配しつつも左折。が、先も凄く狭い! うちの車はドキドキしつつ通る事は出来たし、駐車場へ向かう事も出来たけれど、こちらのアクセスはお勧めしない(^^;)

立花山城・駐車場入口

【左】上の写真を通り過ぎて右側。こちらに「立花山登山者用・駐車場入口」の案内がある! (写真は帰りに写したもので、向きが反対。)意外と小さい看板なので見落とし注意かも(^^;)
【真ん中】入口から進んだ所の立花山登山者用駐車場の案内。
【右】とても広い駐車場。この時は、かなりの車がとまっていて、とめられてラッキーな感じだった(@@;)

登山口

【左】駐車場から坂を上がって登山口へ。写真は駐車場方面。
【真ん中】登山口付近から遠景。
【右】登山口。山頂まで1,240m。この登山道、舗装されてラクラクに見えるんだけど…。

登山道

【左&真ん中】登山口から少し上がった所から、振り返った景色♪
【右】レモンの木♪生る姿を初めて見た♪ ところで、登山口から少し上のパンフがある所までのこのコンクリートの坂が、結構大変だった!1番キツかったかも?

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