トロとまったり・tripのページ(柳川城 その6)

城西橋

【左】東方面で、三の丸方面。この橋は古絵図にはないみたい…。
【真ん中】西方面。
【右】城西橋から南側の檀一雄文学碑方面。

【左】城西橋から南側の檀一雄文学碑方面。
【真ん中】城西橋から北側。
【右】真ん中の写真の中央右奥にある蜘蛛手網。加工を施しても厳しい逆光…。

十時邸・他

【左】赤い屋根が印象的な十時邸。
【真ん中】左が国文学者藤村作先生顕彰碑と、右が海老名弾正先生顕彰碑。
【右】同志社創立者 新島襄ゆかりのカタルパの木。

藤平門橋

【左&真ん中】南側から藤平門橋方面。堀を渡った先が門跡。
【右】この付近までが白秋道路。白秋通学路は伝習館高校まで続く。

【左&真ん中】西側から東方面、渡った先が門跡。
【右】門跡から西方面。

【左】藤平門橋から北側。
【真ん中】藤平門橋から南側。
【右】橋を渡って東へ進み、突き当りから振り返って。

南下して…

藤平門跡から東へ、その後、南下した所の水堀。
【左】北方面を向いて。
【真ん中】東側に続く水堀。西側は木々で見えず…。でも、古絵図によるとここから水堀があるみたい。
【右】弥兵衛門跡方面。写真正面の所に田中吉政公之像が立つ。

田中吉政公之像

弥兵衛門橋の北側の水堀沿いに立つ。道から見ると後姿だった(^^)

■国主田中筑後守吉政公之領…公は天文17年近江国高島郡田中村に生る。 時世は戦国の末群雄の興亡常ならぬ間、公が能く織田・豊臣・徳川の三代 に歴仕したのは文武両道にわたる才幹を愛惜された事に外ならない。 公は自己に執着せず先見の明があり信玄の治水に学び和蘭の技法を摂り、 矢部・花宗・太田・山の井・筑後の各河川を開削疏通して用水を豊かにし舟運を便利にし且つ洪水の緩和を計り、 更に芦塚・浮島・道海島・大野島を開拓し、海辺に八里の大堤を築いて新地を加え潮害を防いだ。 陸上にては城下の中心地辻町に元標を置き、棒状の道を四通して軍用に備え沿道の生産を興し宿駅を設けて旅客の安全と町の賑わいをもたらし、 溝口の和紙蒲池の陶器を始め、上妻の茶下妻の藺草など郷土の産業を盛んにした。 慶長六年入封以来、柳川を本拠として五層の天守を建て以て民に安堵の感を与え、 条里制堀割に依る城下町を経始して今日の水郷川下り観光の基を開いた。 亦、公は敬謙な信仰心より寺社領の乱れを正した後に手厚い保護を加えた。 是らは皆民生の活力を願う誠心に発したもので、公の功業の恒久な所以である。 平成二年十一月吉日 (田中吉政公顕彰会の碑より)

弥兵衛門跡 ・ 弥兵衛門橋

【左】北側から三の丸へ向かう弥兵衛門跡へ。写真左側に、田中吉政公之像が立つ。
【真ん中】左の写真の所から弥兵衛門橋を。渡った先が、弥兵衛門跡。
【右】真ん中の写真から東側の堀を。幅がある。

【左】左上の写真の緩やかなクランクを進んで…。
【真ん中】北側から弥兵衛門橋。渡った先が、弥兵衛門跡。
【右】弥兵衛門跡に立つ「三の丸戍亥門 弥兵衛門跡」の碑。他は無いのに、どうしてここはあるのかな?

【左】弥兵衛門橋から西側。
【真ん中】弥兵衛門橋から東側。
【右】南側(弥兵衛門跡側)から北方面。

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