【会津若松城 その2】

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左から干飯櫓&南走長屋&天守閣 藩主の居間跡&表御座跡
重なってしまったけど、パノラマっぽく加工。長〜いイメージが伝わるかな(^^)
長局跡 奥御殿の庭跡 藩主御居間の庭跡
御三階
御三階は、数寄屋風の楼閣状の建物で、城内の他の建物とは 趣が異なっていた。密議を行う場所として使われていたと いわれている。戊辰戦争の後、鶴ヶ城の取り壊しが行われる 前に、七日町の阿弥陀時に移築され、現存している。この石垣台は、 後年になって再移築されたものである。(案内板より)
高石垣の上(廊下橋からの左側部分) 茶壷櫓跡方面
高石垣の上を歩くのって気持ちいい。真ん中の写真は、 柵の向こうを写したんだけど、なんか行きたくなる(笑)
茶壷櫓跡 月見櫓跡
櫓内には常に貴重な茶器類がおさめられていたのでこの名がある。 更に武器の収容をも目的とした二重の塗込櫓であった。茶壷櫓の西側 の本丸御殿内には茶室「麟閣」が建てられていた。 この櫓は御弓櫓と共に本丸の旧大手口に通じる廊下橋の横矢掛りとしても 重要な櫓であった。北側の石垣は高さ20m余で、城内では最も高く美しい扇勾配 をなし「忍者落し」ともいわれている。 (案内板より)
(左=どうして人が多いかというと…。下へ続く…。真ん中=二の丸側から。)
二重の塗込櫓で常に武器が収められていた所であったが、 城内からの月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから、 月見櫓の名が付けられた。城下南方の湯川や天神橋方面の 搦手側の物見櫓として、また内濠牛沼沿の本丸石垣の外部の 横矢掛りとしても重要な櫓であった。(案内板より)
答えは、ここからの桜と天守閣が美しいから!そして、 二の丸側を見ると、山並みと桜の素敵な景色も眺められる♪
麟閣
天正18年(1590)蒲生氏郷は、豊臣秀吉の奥州仕置によって、 会津領主となった。蒲生氏郷は、織田信長から厚い信頼を よせられていた上に、この時代を代表する文化人でもあった。 特に茶道に親しみ、利休七哲(※茶人・千利休の弟子として 名高い7人)に挙げられるほどだった。 天正19年(1591)、茶道の祖・千利休が、豊臣秀吉の怒りに触れ、 切腹を命じられると、会津領主・蒲生氏郷が、 利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子、少庵を 会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に 願い出た。その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、 少庵の子・宗旦に引き継がれ、 宗左、宗室、宗守の3人の孫によって、表、裏、武者小路の 三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれた。 この少庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷の 為に造ったと伝えられている。江戸時代の初期から中期にかけて、 現在の様式に改められたと考えられる茶室である。 戊辰戦争の後、城下へ移築されていたが、平成2年に建造当初の 地に移築・復元された。
鶴ヶ城(本丸側&埋門跡の上付近から)
本丸のはずれにあったベンチでお弁当を食べていたら、桜の花びらがお弁当に入って大変だった(笑)
天守閣&入場券売り場 入場券売り場横の赤ベコ
入場券売り場の横で、赤ベコが出迎えてくれる(^^) 室内の売店で見たきれいな絵蝋燭が、心引かれた〜。
天守閣入口 見上げた天守閣
(左)入口が凄すぎ!ちなみに、心を引かれたけど、絵蝋燭を買わなかったのは、 使うのが勿体無いなぁと思って(^^;)
天守閣からの景色(パノラマっぽく加工)
山並みも見下ろす桜もきれい(^^) この写真の右側が、下の写真の左側、 下の写真の右側が左側って感じに続く。
左側が本丸、南走長屋&鉄門の右側が帯郭。ちょうど、鉄門の先に見える 小高い山の左側部分が、岩崎城跡。
鉄門 干飯櫓(ほしいやぐら)
帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門である。 扉や柱が鉄で包まれていたところから鉄門の名が付けられている。 門の石垣の仕法は「切込はぎ」と呼ばれ、代表的な遺構の1つとして 知られている。戊辰戦争時、藩主容保はここで指揮をとった。 (案内板より) 平成13年春に完成した干飯櫓・南走長屋は、若松城における 初の本格的復元建造物である。干飯櫓は、城内にあった11棟の 二重櫓のうち最大で、名前が示す通り干飯(干した米)等の 食料が入っていた建物。干飯櫓と本丸への表門となる鉄門 をつないでいるのが南走長屋。ここには主に武器などが置かれていた。 (案内板より)
(左)内部から見た鉄門&天守閣。(右)鉄門から天守閣を眺める(^^) どちらも好きなアングル♪
蔵跡と水路跡 塩蔵乃内櫓跡(西櫓)
二棟の蔵の基礎石と水路の跡である。 この蔵跡の左側には本丸への表門となる鉄門があるが、 この蔵によって北出丸・西出丸方向から直接鉄門が、 見えないようになっている枡形である。資料によると、 「兵器蔵」であったと考えられる。(案内板より)

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