御朱印蔵跡 | ||
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■御朱印蔵跡…
「切石」できっちりと積まれた石垣の上に、
建てられていた御朱印蔵には、将軍家から代々
与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や
刀剣類が納められていた。これらの収蔵品の虫干しは、
毎年1度必ず行われ、また蔵への出入りには、右側の梯子が使用された。
(案内板より・絵図も)
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二の丸 | 二の丸から三の丸の石垣 | ←の写真を上から |
(左)礎石が並ぶ二の丸。(真ん中)二の丸から三の丸の石垣を。 ここも面白い(^^)(右)上からだと段差がある。 | ||
二の丸をもっと奥へ | ||
奥へ進むと、石垣の凄さにビックリ!一瞬、巨大な墓石が並んでるのかと思った…(^^;) | ||
的場跡 | ||
苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と 二の丸に設けられていた。二の丸にあるこの的場は、 領主居間の南側、一段と低いところにあった。 的場の敷地は、長さ30m、幅15m程で、剣、 櫓、鉄砲の稽古も行われていた。 残っている的の土塁は、長さ3m、高さ1m程で、 右側は石垣、左側と奥は土塀で囲われていた。 (案内板より) | ||
綿蔵門跡 | ||
本丸へ上がる道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、 夕方七ツ時(午後4時)以降は、扉が閉められ、 本丸には進めなかった。門の名の由来は、年貢として 納められた真綿が、門の2階に保管されていたことから きている。(案内板より・絵図も) | ||
坂下門跡下から綿蔵門跡方面 | 坂下門跡 | |
■坂下門跡…この門は、2脚となっており、
門の礎石と手前の石段が良く残されている。
坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、
またの名を久世門ともいう。
これは、3代領主友貞の奥方の実家で、
苗木城改修の際に、力添えをした徳川家譜代の
名家久世家の名からきていると伝えられている。
(案内板より・絵図も)
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菱櫓門跡(外側から) | 本丸石垣 | 千石井戸 |
■千石井戸…深くは無いが、どんな日照りの時でも水が涸れたことがなく、 俗に、千人の用を達したといわれる。(案内板より) | ||
本丸石垣 | 的場跡 | 本丸口門跡(外側から) |
ポコポコと大きい石が埋め込まれていて、 面白いなぁ(^^) (真ん中)本丸石垣の下に的場跡があった。 | ||
武器蔵跡&具足蔵跡 | ||
■具足蔵…本丸口門から見て右側の崖上にあり、 2間3尺、3間の建物である。 ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも 呼ばれていた。(案内板より・絵図も) 巨石に穴があるから、何か建物に使ったのかなぁ。それにしてもデカイ。 |
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玄関口門跡 | 天守台下を南へ進むと… | この先の西側に笠置矢倉跡 |
玄関口門跡から上がらず南へ進むと、笠置矢倉跡があって、 そこから左へ進むと、巨大な馬洗岩がある(^^) | ||
笠置(かさぎ)矢倉跡 | ||
本丸から見て西側にある矢倉で、常時何も置かれていなかった。 この絵図では、建物が一層に描かれているが、実際は床下も合わせて 3階建ての掛屋造りで、巨岩の上に建てられていた。 ここからの眺望がよく、笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」と 呼ばれた。(案内板より・絵図も) | ||
馬洗岩 | ||
(右)馬洗岩から本丸石垣。 |
天守台 | |
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■本丸…木曽川を天然の堀とした苗木城の本丸は、巨岩重なる岩山である 高森山の頂上部(432m)一帯にあり、眼下の木曽川から約170mの 比高差がある。(案内板より・絵図も) ↑苗木城址碑。 |
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天守台からの景色 | ||
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(左)木曽川と中山道中津川宿場町の街並み。 (真ん中)一際高いのが恵那山(2,191m)。 (右)笠置山。 | ||
■苗木城
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