岐阜県 高山陣屋 |
■高山陣屋=420円 開館時間=8時45分〜17時(3/1〜10/31)、 ※(8/1〜8/31)〜18時。(11/1〜2/28)〜16時半。 駐車場=近辺の有料駐車場 (2008.7.28現在) |
住所=高山市八軒町1-5 この時は、国道41号〜国道158号へ東に進み、 日赤北交差点で、国道158号は左折するようになるが、 県道460号へ直進し、そのまま460号を走るように左折、 左側に高山陣屋がある。ちなみに、 次の陣屋前信号から、橋を渡る手前の道を右折、 左側の有料駐車場を利用した。 |
高山陣屋 | ||
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元禄5年(1692)7月、6代高山城主・金森頼ときは、出羽国 上ノ山に移封となり、飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。 幕府は8月18日、関東郡代伊奈半十郎忠篤に、飛騨代官を兼務させ、 22日に加賀国前田加賀守綱紀に、高山城在番を命じた。 伊奈代官は、金森氏家臣四家の屋敷を会所として、 金森氏移封後の事務処理に当たった。 元禄8年(1695)4月、高山城の取り壊しが始まり、 3代高山城主金森重頼の3人の娘が居住していた 向屋敷に代官所を移して「高山陣屋」と称した。以降、明治維新に 至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。 元禄8年当時の高山陣屋は、約2万8千uの広大な敷地を有していた。 高山城三の丸にあった米蔵2棟を陣屋内に移築し御蔵とした以外、 建物の配置・規模などは不明である。享保10年(1725)老朽化が激しくなった 高山陣屋の建物は、御蔵以外全て解体され、旧材を利用して御役所と 御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。 しかし、敷地は3分の1に縮小されている。その後、文化13年(1816) 御役所、文政13年(1830)郡代役宅、天保3年(1832)表門と陣屋の 建物は漸次改築された。 この間、享保14年(1729)に、美濃国の一部、明和4年(1767)に、 越前国の一部が飛騨代官の所管地となり、また安永6年(1777) 12代代官・大原彦四郎紹正(つぐまさ)が布衣(ほい)郡代に昇進し、 関東・西国・美濃と並んで飛騨は幕領の中でも、有数の地位を占めるに 至った。明治維新後、飛騨県、高山県、筑摩県、岐阜県と行政 区画が変転する中にあって、旧高山陣屋は県政の庁舎などに転用され、 また敷地も分割されていった。昭和44年、飛騨県事務所が移転し、 高山陣屋跡の管理は、岐阜県教育委員会が所管することとなった。 岐阜県教育委員会は全国にただ1つ現存する幕府の陣屋跡を 後世に保存すべく、昭和45年以来、文化庁の指導・援助を得て 復元修理工事を実施している。 (岐阜県教育委員会の案内板より) | ||
表門 | 問屋梅 | 井戸 |
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門番所 | ||
文政期以前は、表門に接して北側に四間、 四間の建物が設けられていた。(案内板より) (右)継ぎ足したような柱部分。 | ||
仮牢跡(薪炭小屋跡)と玄関 | 蔵番長屋 | |
この建物は、当初薪炭小屋として建てられていたが、
天保年間仮牢(留置場)として転用された。
本牢は、陣屋外のえび坂に設置されていた。
(案内板より)
(左)小さい建物の前が、仮牢跡。 (右)蔵番長屋。中は、休憩室など。 その向こうに見えるのが、高山城跡。 |
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御蔵 | ||
元禄8年(1695)高山陣屋の設置に伴って、高山城内の
米蔵2棟を移築し陣屋御蔵とした。現存する西棟は、
江戸時代の米蔵として、国内最大級である。(案内板より)
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供待 | 腰掛 | 不浄門 |
(左)お供の者の待合所。 (真ん中)呼び出しを受けて、出頭した人の控所。 (右)不浄門を外側から見たもの。 | ||
書物蔵(かきものぐら)&帳面土蔵跡 | ||
(左)木造、土蔵造、半榑熨斗葺置屋根の飛騨地方における
典型的な土蔵。天保12年(1841)新築。
明治14年、御庭東南隅に移築、昭和56年、現位置に復旧。
(2枚とも案内板より)
白い蔵。
(右)高山陣屋内には、幕末時、5棟の土蔵が建っていた。 帳面土蔵は、二間・二間の大きさで、西面に入口 庇を突き出していた。お蔵に次いで古い。 |
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元締役宅跡と手附・手代役宅跡 | 侍部屋跡 | |
飛騨代官(後に郡代)は、職務遂行のため、
直属家臣を伴って着任した。この家臣を手附、
手代と呼び、首席を元締と称した。
手附、手代は、陣屋内の役宅に居住した。
文政年間の高山陣屋図によると、東棟は49坪、
西棟は54坪の大きさであった。(案内板より)
(左)元締役宅跡。 (右)手附・手代役宅跡。 |
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