【松前城 その1】

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北海道 松前城 ほっかいどう まつまえじょう
■松前城(別名=福山城)
入館料金=350円
開館時間=(4月〜12月)9時〜17時(16時半まで)
休館日=12月11日〜4月9日
駐車場=無料            (2005.8.1現在)
住所=松前郡松前町字松城144
国道228号を松前方面へ走り、道道380号の 松前公園800m の看板を右折。T字を左折して、 左の郵便局を過ぎて信号を右折。看板が出ている所を右折。 少し上っていくと左に、駐車場がある。

松前城(福山城) (案内板をクリック→拡大)
約550年前の松前には大館と呼ぶ館があったが、後に松前氏を名乗った 蠣崎氏がこの地に居住し徳山館と名付け、松前家5世慶広が慶長5年に 現城跡に大規模な館を造り「福山館」と称した。 その後嘉永2年(1849)、松前家17世(松前藩13代藩主)崇広(たかひろ)の代に 北辺警備の必要上幕府は松前藩に命じて 本式の城を築かせ、高崎藩の兵学者市川一学の設計により旧城を壊して新築し、 安政元年(1854)に完成した。
構造形式は平城、我国最北に位置し、 最後の遺構。城郭の規模は東西240m、南北300m、本丸、二の丸、三の丸に分かれ、 三層櫓が1つ、二層櫓が3つ、16の城門、を有する我国最後の本格的築城であった。
明治元年箱館戦争の時、攻防のちまたとなり、明治8年天守と本丸御門を 残して大部分は取り壊された。城跡は昭和10年国の史跡に、天守と門は 昭和16年国宝に指定されたが昭和24年業火の為、三層天守を焼失、 本丸御門を残し、国宝指定が解除された。昭和25年本丸御門は国の重要文化財に 指定、昭和35年天守閣、同36年搦手門は鉄筋コンクリートで再建された。 (案内板より)
松前城へ+α
(左)ここを右折して松前城へ。 (真ん中)ちなみに、曲がらない場合の直進の道を。 この写真の右の角に、
福山城跡の碑が立つ。 (右)真ん中の写真の奥へ進んだ所。ついつい 行きたくなるんだよねぇ(^^;)
福山城跡の碑 埋門跡 大手二ノ門跡
(左)上真ん中の写真の右の角に立つ碑。 (真ん中)福山城跡の碑の右側が埋門跡。 (右)大手二ノ門跡。
まとめると、右折後、左側に、石碑、埋門、 大手二ノ門跡が続く。それにしても、北海道って暑い。汗ダラダラ。
大手二ノ門跡から上って… 馬出桝形跡
この反対側の右は馬出桝形跡を発掘中だった。 ブルーシートで見えないけど、かなり形がある感じだった。
(左)発掘で出たであろう土。 (真ん中)その隣には桜。 (右)この駐車場を利用していいか「?」だったけど、 利用した。
多門櫓跡 入口 本丸
(左)入口の手前。 (真ん中)ここから中へ。ここ大きな松前城碑が あるのに、写すの忘れた! (右)緑がきれい!
本丸御門(表&裏)
昭和25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。 本丸御門は昭和24年に屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、 屋根銅板が磨耗し、雨漏りを生じるようになり、また昭和58年の 日本海中部地震により、柱の傾斜などが生じた為、 屋根葺替部分修理を実施した。実施に当っては松前町の直轄工事とし、 設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。(案内板より)
天守
(左上)桜の木で隠れているのが、
勿体ないけど、格好いいな♪
(上真ん中)本丸御門の横から。
(右上)本丸御門の裏側から。
(下2枚)天守からの景色。
天守内に置かれているスタンプを
子供が真剣に何かをしているから、
?と思ったら、日付が逆になってた。
外国じゃないんだから…(^^;)
旧福山城本丸表御殿玄関
慶長11年(1606)に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、
寛永14年(1637)城中から火を出し、多くの建物を焼失、同16年これを修築
した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治8年、北海道開拓使の命令により、福山城は取り壊されたが、天守と
本丸御門、表御殿は残った。表御殿は、松城小学校として充用され、明治
33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和
57年まで利用されてきた。(案内板より)
本丸御門を出て、右側にひっそりとある。もう少しで見落とすところ
だった(^^;)

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