搦手門跡〜搦手二ノ門跡 | ||
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(左)搦手門跡。奥が、東郭の隅櫓跡。 (真ん中)奥に見えるのが、搦手二ノ門跡で、手前が桝形。 (右)ちらり。 | ||
東郭の隅櫓 | ||
この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にある。 東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手桝形・北郭とともに 東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓だった。櫓の規模は、 絵図「福山城見分図」から、1階の柱芯間が桁行四間(7.272m)、梁間 三間(5.454m)であったことが判る。また、発掘調査を行った結果、出土 した土台石の規模が、絵図寸法と一致する事が判明した。櫓の構造は、 屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であった ことが、慶応3年(1867)に撮影された古写真から判る。 |
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二ノ丸 | ||
(左)二重太鼓櫓から二ノ丸を見渡して。 (真ん中)これは何かな? (右)三ノ丸(手前)から二ノ丸方面。 | ||
二ノ丸・二重太鼓櫓跡 | ||
この櫓は、二ノ丸南東隅にあり、城内三ヶ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を
監視する上で最も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、
三ノ丸と、広範囲を見渡す事が出来た。また、平常時にはその名の通り、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、
櫓の西に接して「太鼓番居小屋」があり、その管理をしていた。
櫓の規模は、絵図「福山城見分図」から、一階の柱芯間が四間(7.272m)四面
であったことが判る。また、土台石は発見されなかったが、発掘調査で
出土した土台下の地業(地下構造)の規模が、絵図寸法と一致する事が
判明した。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)
であった事が、慶応3年(1867)に撮影された古写真から判る。(案内板より)
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三ノ丸 | 三ノ丸と二ノ丸の外堀 | 鉄砲置場 |
(左)いろいろと復元。 (真ん中)左が三ノ丸。 (右)ひょっこり見えるのが三本松。その奥が、搦手二ノ門方面。 | ||
番所跡 | ||
この番所は、搦手桝形へ通ずる外堀に架かる木橋脇にあり、 木橋の守備及び三ノ丸地域の警備の為に置かれている。 三ノ丸には、同様の番所がもう一ヶ所あり、追手桝形へ 通ずる木橋脇にもある。 番所の平面規模は、柱芯間で、桁行18.5尺(5.6055m)、 梁間15尺(4.545m)と考えられる。なお、この平面形・規模は、 発掘調査で遺構が発見されなかったので、松前神社所蔵の「線図」 から推定した。番所の構造は、文化・文政期に描かれた「松前 自沖口至奉行所図(まつまえおきぐちからぶぎょうしょにいたるず)」 から、屋根が瓦葺きで下見板張りの壁であろう事が考えられる。 また、慶応3年(1867)に撮影された古写真には、七番台場の 覆屋の後方に、この番所の屋根部分が写っている。(案内板より) (左)番所跡。(右)福山城の模型が置かれている。 | ||
五番台場 | 六番台場 | 七番台場 |
(左)分かりやすい♪ (真ん中)天神坂門跡の横付近だから、六番台場と思うけど、何も無いなぁ。 (右)建物付き。 | ||
天神坂門跡&天神坂 | ||
(左)外側。 (真ん中)内側。 (右)写真の左下には、大松前川が流れる。 | ||
馬坂〜馬坂橋 | ||
江戸時代に松前藩氏が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂」と呼ばれて
いたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
松前家5世・藩主松前慶広の四男・数馬之介由広が大坂冬の陣(1614)が
起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとした為、家臣に襲われ、
斬り殺された場所とも伝えられている。当時、城内へ通ずる坂は5つあり
(馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその1つである。(案内板より)
■土方歳三も上った坂… 明治元年(1868)11月、土方歳三率いる旧幕府軍(徳川脱走軍) と松前藩兵との松前城における攻防で、城門(「馬坂門」と推定される) を挟んで展開した戦いの時、土方歳三は南と北口の坂を上って松前城に 攻め入った。なお、京都池田屋事件で活躍した「永倉新八」は元松前藩士である。 (案内板より) (真ん中)馬坂橋。奥が馬坂。(右)馬坂橋から大松前川を。 |
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福山城跡碑&徽典館跡 | ||
文政5年(1822)創設された藩校で、 維新戦争によって焼失するまで、 藩士子弟の教育の場として、有能な 人材を送り出した。授業の内容は 四書五経の他、史記などの歴史に 漢詩の創作が加えられ、武芸の奨励 とともに文武忠孝を極める事を目的 とした。(案内板より) (2枚)馬坂と馬坂橋の間にある。 |
■松前城
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