二之丸庭園 | ||
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二之丸庭園は、赤穂城二之丸北西部に存在した大規模な池泉で、
東は大石頼母助屋敷から始まり、西仕切りまで及ぶ瓢箪形の
雄大なものだった。
山鹿素行の「年譜」の中にこの池泉に関連する記載が見られ、
頼母助屋敷の一角で謫居生活を送った素行がこの池泉で
遊興したことが記されている。
(案内板より)
←山に「赤」の文字が見えた! |
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遊水池(ゆうすいち) | ||
赤穂城下一帯は、掘り井戸では海水が湧き出て飲料水の確保が困難であった。 その為、慶長19年(1614)から元和2年(1616)にかけて熊見川(現在の千種川) 上流から隧道(ずいどう)を掘り抜くなどの工事を行い、城内及び城下の各戸にまで 給排水されていた。これが赤穂浪士と並び全国に名高い「赤穂旧上水道」である。 城内の赤穂旧上水は竹管・木樋や備前焼土管などにより、各屋敷や池泉に給排水 された後、本丸の堀に至り、この遊水池によって堀の水量は調整され、 余水は排水路を経て城外(海側)に排出されていた。 現在の姿は、発掘調査により明らかになった遊水地及び排水路の遺構を盛土により保護し、 その上部に往時の遊水・排水機能とともにその姿を復元的に 整備したものである。(案内板より) | ||
西仕切門跡 | 元禄桜苑 | |
千潟門跡 | 西中門跡 |
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入れなくなってた(^^;)仕方ないので遠くから我慢。 でも、千潟門跡から二の丸庭園へ向かう西中門が見えた(^^) | |
南西隅櫓台(二重櫓) | 堀にいた白鳥 |
この付近の公園にはHな雑誌が散乱し…。 | エサくれるの?と寄って来た。ごめん。持ってないよ(^^;) |
南西隅櫓台から… | 赤穂城跡公園西駐車場 | |
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歩いてると角々とこんな感じに。 | 利用者以外はダメ!! 力強く仰ってます(^^) 後ろの人も太鼓を持って待機。 | |
西隅櫓台(二重櫓) | |
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塩屋門のやや南にあたり、二重櫓が存在していた。 往時はこの櫓台から沼と 侍屋敷を画する土手が南西方向に延び、 櫓台裾付近には三の丸外堀の水量調節の 水門が設けられていた。 (標柱より) | |
赤穂城跡石碑 | 鶴の丸公園 | 鶴の丸公園付近から西隅櫓台 |
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説明板と赤穂城跡石碑がある。 こんな所にあるんだ〜って印象。 |
この公園は、江戸時代の赤穂藩主 森家の家紋「鶴の丸」にちなんで。 |
年の暮れの雰囲気は無く、日常 会話が聞こえてくる道だった(^^) |
塩屋門 | 北隅櫓台(一重櫓) | |
塩屋門は赤穂城搦手の門として配され、高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、 建築面積約16.5uであったという。門を入ると内部は内桝形をなし、 門正面には高さ4.5mの桝形石垣、左手は雁木となり、城内へは右手方向へ 進路をとる。桝形内には番所と太鼓櫓があって、この門内外の 侍屋敷に合図を行った。門の向きは南よりの西向きで、足軽2人、下番2人、 三道具(突棒・刺股・袖搦)1組が配置されていた。 元禄14年(1701)3月19日、公の刃傷・切腹を報らす第一(早水藤左衛門・萱野三平)、 第二(原 惣右衛門・大石瀬左衛門)の早使の入ったのもこの門であり、 4月19日城請取りの備中足守藩主木下肥後守の軍勢が入城したのもこの門である。 真ん中の写真は、明治10年代頃に写された塩屋門。中央やや左に高麗門の門構えが、 左端には太鼓櫓が見える。右奥の建物は二十の隅櫓で、1層目に唐破風付きの 出窓を備えている。その規模は基底部で東西約6.9m・南北約8.8mと 伝えられている。 (赤穂市教育委員会の案内板より・古写真も) | ||
番所跡休憩所 | 番所跡から大手門へ | |
鬼瓦に、浅野氏の違い鷹の羽があった番所跡休憩所。こだわりを感じる(^^) | 桝形?さて、大手門へ。 | |
大手門(裏&表) | 城ポスト | |
大手門を出ると、大手隅櫓が見る事が出来る♪ちなみに、向かい側の公園 では、お城の形をしたポストがあって、大石家の双ツ巴と浅野氏の違い鷹 の羽の紋がデザインされてる(^^)なかなか背高のっぽのポストでござるよ。 |
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番所跡から見上げた大手隅櫓 | 大手門 |
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こちらから見るのもなかなかいい感じ(^^) | 車が通らないようで、通るから写すのが大変(^^;) |
大手隅櫓 | |
三の丸北西桝形&三の丸堀 | 三の丸北西桝形 |
ゴミの日なのか石垣の側に集められていた(^^;)12月29日だったんだけど、年末最後の収集日だったのかな(笑) | |
赤穂城三の丸北西桝形外堀跡 | 武家屋敷跡 | 三の丸堀跡 |
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赤穂城三の丸北西桝形(櫓なし)の外堀付近は、明治初期より田・畑・宅地になったが、 今回の発掘調査によって堀の幅や護岸が確認された。 堀幅は約16.2m、護岸は高さ約1.2mの野面積みで一部打ち込みハギも施されていた。 護岸内には、武家屋敷があったので「旧水道」の 汲み出し桝や給水管も発見された。 (赤穂市教育委員会の案内板より) | ||
加里屋川 | 船入 | |
熊見川に開口した船入で、昭和59〜61年(1984〜1986)にその一部が発掘調査された。
船入の内部は石垣護岸となり、桟橋状の突堤が付設されていた。
(標柱より) 歴史博物館と東隅櫓台(↓下の写真)の間にある船入。 この近辺の石垣はかけてる部分が多いな〜! 左の写真は、船入の隣りに流れる加里屋川。 |
東隅櫓台(一重櫓) | |
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