【篠山城 その1】

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兵庫県 篠山城 ひょうごけん ささやまじょう
■篠山城=見学無料
■篠山城大書院=400円
入館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=月曜(祝日の場合、翌日)年末年始
駐車場=有料駐車場(三の丸西駐車場200円)
                    (2008.11.1現在)
※ここでは、2006.9.16と2008.11.1(表記あり)の
写真を使用しています。
住所=篠山市北新町2-3
この時は、舞鶴若狭自動車道 丹南篠山口I.Cを下りて、 篠山へ左折。県道306号を亀岡市方面へ進み、尾根橋北詰の 信号の次の北信号を県道49号へ左折。南新町交差点を過ぎて 進んでいき、小さい看板があるので、それに従って左折、 その先に駐車場。

篠山城 (小さい案内板の写真をクリック→拡大)
篠山城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、慶長14年(1609) 豊臣氏の居城である大坂城の包囲と、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を 抑える拠点とするために篠山盆地に築いた城である。 築城工事は西日本の15ヵ国20諸侯の大名に夫役を命じた天下普請で行われ、 縄張り奉行の藤堂高虎(三重県津城主)、 普請総奉行の池田輝政(兵庫県姫路城主)らが 指揮を執り、人夫延べ8万人を動員した突貫工事に より僅か1年足らずで完成した。 但し、天守閣は家康の命令で築かれていない。 初代城主として家康の実子である松平康重が八上城から移り、松平氏三家八代と 青山氏六代といずれも徳川譜代の有力大名に引き継がれ、260年余の幕藩体制のもと、 篠山藩5万石の政治・経済・文化の拠点としてその役割を果たしてきた。
(右)もう1枚の縄張図には、「廊下門=北廊下門」。 馬出も、「門」が付かない表記だったけど、 櫓の絵がいい感じなので、こちらを紹介。
※ちなみに、観光パンフも同じなので、 ここでは同じ表記にしています。
北廊下門跡&表門(櫓門)跡
(左)城址碑。  (真ん中)三の丸から北廊下門を通って、表門跡へ。  (右)大きな石垣が迎えてくれる(^^)
(左)裏側から。 (真ん中)わぁい!刻印だ〜♪ (右)二の丸から見下ろして。格好いい!(右のみ=2008.11.1撮影)
中門跡 中門跡の石垣 二重櫓跡
(左)表門側から。(真ん中)左の写真の右の石垣。 (右)中門から鉄門の間の二重櫓跡。(右のみ=2008.11.1撮影)
この付近の石垣は、いっぱい刻印があって、ウキウキ!! こっちにも、こっちにもみたいな(^^)
鉄門跡&塀重門跡
二の丸へ至る最後の門の跡。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉には、 鉄板が張られていたのではないかと考えられる。 発掘調査の結果、門跡は廃城後に1.5m埋められていたが、土を取り除いた所で、 門跡の範囲を示す敷石と階段跡などの遺構が発見された。これによって鉄門は東西の 幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4.5mとの間に 造られた厳重が構造であった事が明らかとなった。 二の丸登り口の整備にあたり鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示している。 (案内板より)  鉄門跡(左)から入って、左側に塀重門跡(右)。
二の丸(二の丸御殿跡)
二の丸は、大書院、小書院、中央御殿、奥御殿、 台所などの建物と築山を持つ庭園があり、 儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で、 篠山城で最も重要場所であった。これら御殿群の 周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐ ように多聞櫓と門が配置されていた。 現在残っている二の丸御殿間取図や発掘調査の結果から、 御殿は江戸時代に何度か建て替えられており、増築 されたりしていたようである。 しかし大書院を除く建物は、廃藩後には取り壊され、 唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の 建物は全て無くなってしまっていた。 御殿は、大書院のように立体的に復元できる 資料がないため、現在発見されている6種類の間取図の中で 最も古い図(江戸時代中期頃)をもとに平面表示の 工法で整備を実施した。(案内板より)
(左)二の丸御殿を北西から南東方面を。
(右)上段の間を奥に見て、ずずいと後ろに下がって写したもの。
大書院
大書院は、慶長14年の篠山城築城と同時に建てられたと考えられている。 それ以後、幕藩体制が終わるまでの約260年間にわたって、 藩の公式行事などに使用された。 建物は、北正面に唐破風をつけた車寄があり、東に中門が突き出す様式で、 内部には8つの部屋がある。藩主の着座する上段の間は、大床、違棚、 帳台構、付書院が設けられている。 明治6年(1873)の廃城令によってその大半が取り壊されたが、 保存を願う人々の努力により、城建物の中ではただ1つ大書院だけが残される事になった。 その後、小学校、女学校また公会堂などに利用されたが、 昭和19(1944)年1月6日の夜、火災により焼失した。 (案内板より)   (左下)東側。横に上段の間がある。(下真ん中)入口。 (右下)篠山城模型。
虎之間・闇り之間 手鞠之間
室内をただ見るだけでなく、廊下の所々に、篠山城、 篠山藩に関係するパネルが展示してあるので、楽しい(^^)
大書院構造模型 廊下 葡萄之間
この模型は、熟練した2人の宮大工が、大書院の設計図をもとに、 4ヶ月の期間をかけて製作したものだそう。凄い!
篠山城の梵鐘 次之間 上段之間
この梵鐘は4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を 願って造り、城中の道場にかけていたもの。
廊下 孔雀之間 何枚も見える戸
室内や廊下を写した時の光具合が、柔らか〜い雰囲気を 醸し出していて好き(^^)
井戸 刻印
(真ん中)確か、井戸付近の石垣にあった刻印だと思うんだけど、 凄く目立ってた。(真ん中のみ=2008.11.1撮影)
二の丸・北東・二重櫓跡&内堀&犬走り
(左)三の丸・北側から。奥の石垣が、二の丸北東・二重櫓跡。 下は、犬走り。 この頃は、まだまだ工事中だった。
(真ん中)北東・二重櫓跡の石垣を。暗いなぁ〜(笑)  (右)二重櫓跡から内堀を。(左を除く=2008.11.1撮影)

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