茨城県 水戸城 |
■弘道館=190円 開館時間=9時〜16時(休館日=年末) 駐車場=無料駐車場 (2005.3.26現在) (写真)三の丸の中堀。 |
住所=水戸市三の丸1丁目6番29号 この時は国道6号を水戸方面へ進み、 国道50号へ左折。県道180号を右折し、ずっと進むと国道51号へ左折。 駅前を過ぎ、県道232号を過ぎて、少し進むと弘道館へ行く一方通行がある。それか、 行き過ぎて国道50号と118号の交差点を斜め右に行き、 警察署の手前(確か曲がってすぐだったと思う)の道を右折すると、 先に書いた一方通行と同じ道に入ることが出来る。 道なりに進んでいくと、右にバス用の駐車場があって、斜め左に 普通車用の駐車場がある。 |
水戸城跡 | ||
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本丸(水戸第一高等学校) | ||
この一郭は鎌倉時代に馬場氏が館を建ててから、江戸氏・佐竹氏と城主が 変わっても本城(本丸)であった。しかし徳川氏は居館を二の丸に建て、この 曲輪は武器貯蔵所とした。城門は東端に浄光寺門、中部に中門があったが、 現在残る唯一の門は橋の袂にあった橋詰門のみである。 (案内板より) |
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桝形虎口 | 下の丸 | 学校の下は… |
すぐに入って駐車場。 | 今はグラウンドになっている。 | 学校は結構高い場所に。 |
旧水戸城薬医門 一棟 昭和58年3月18日指定 (茨城県立水戸第一高等学校内) | ||
この城門は、旧水戸城の現存するただ1つの建造物で、 形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸 の薬医門、二つの脇扉がついている。 薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で 支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、 側面の姿は対称形ではない。正面から見ると、軒が深い為 門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので、 多く造られた。建立の時期は、構造や技法から見て安土・桃山期と 推定される。建物の各部分に用いてある木材の大きさの割合、 すなわち木割は太く、屋根面の相交わる部分に用いてある 木材(棟木)は見えるようになっている化粧棟木で、 棟木を支えるとともに装飾となっている板蟇股は雄大、 また化粧垂木の端の反り増しの技法、柱の上にあって 軒桁を支えている横木(実肘木)やえぐって曲面にした 板蟇股の部分(繰形)の形状などから見ると、おそらく 佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれた ものといえよう。 城門のあった位置には諸説があるが、城門の風格からみて橋詰御門、 すなわち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されて いたが、昭和45年4月17日、水戸市指定建造物となる。 昭和56年9月、この城門に相応しい旧本丸の入口に近いこの場所に 移築、復元した。その際部分補修をするとともに、切妻造の 屋根をもとの茅葺にかえて銅板葺とした。 (茨城県教育委員会の案内板より) | ||
本城橋 | ||
(左)高校の入口にある二の丸と本丸の間の橋。二の丸方面を。 (他)橋から空堀を。今は線路が通る。深いなぁ。 | ||
大手門跡 | ||
大手橋に接してここにあった2階造り の大手門は、佐竹義宣が慶長6年 (1601)に建てたものであったが、 徳川氏の代になっても水戸城の入り 口の門で、前に下乗の札、後ろに 番所があった。楼上では太鼓または 鐘を打って知らせた事もあったが、 明治初年に取り壊された。 (案内板より) |
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大手橋 | ||
三の丸と二の丸を結ぶ橋。人が渡り終えるまで待とうとしたけど、 次から次へと(^^;)(右)三の丸の弘道館方面。 | ||
茨城百景 弘道館と水戸城祉碑 | 徳川斉昭公像 | 徳川頼房公像 |
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