【守谷城 その1】

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茨城県 守谷城 いばらきけん もりやじょう
■守谷城=見学自由
駐車場=無料(小学校近くの城祉碑近くに駐車スペースあり。 守谷城祉公園は2箇所。手前は少なく、奥は広い。城祉へは手前が近い。) (2005.9.10現在)
住所=守谷市本町
千葉方面から国道6号を茨城・取手市方面へ走り、 国道294号へ左折。つくばエクスプレスの高架下近くの 土塔交差点を右折。線路を渡ってすぐ右折。 保健センター前の信号を過ぎ、 左にあるスーパーの隣の保険センターのすぐ隣の道を左折。 進んで行くと、右に小学校、左には城祉碑がある。城祉碑の近くに何台か駐車スペースあり。 小学校を過ぎ左に進み、道なりに進むと右に守谷城祉公園の駐車場。

守谷城の概観
(一)守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の 守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。 平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。 この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。 師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。 本城の面積約21,254uで、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。
(二) 本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、 そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。 この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。 なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を 湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。 永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点と なすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった。 (案内板より)
(左)守谷城領域図 (写真をクリック→拡大)&(右)左の守谷城領域図の番号案内
大手口(左の土塁と右側のフェンス越しに石碑) 小学校敷地内の平将門城祉碑
両側に城祉碑があるのも不思議。でも見つけやすい(^^) フェンス越し(^^;)でも平将門の可能性は低いんだって。
小学校の反対側の城祉碑 城祉碑近くにある土塁
こんな風に駐車スペースがあるよ。 ここに上の守谷城領域図があって、とても便利(^^)
守谷小学校(本郭のあった所) 枡形?(小学校敷地内)
守谷小学校裏側の道を歩く。残存土塁でいいのかな?

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