茨城県 逆井城 |
■逆井城(別名=飯沼城)=見学自由 ■逆井城跡公園 駐車場=無料駐車場 (2005.2.27現在) |
住所=坂東市大字逆井 常磐自動車道 谷和原I.Cから国道294号を水海道市方向へ、 新井木交差点を国道354号方面へ左折。 そのまま進み岩井交差点を県道20号へ右折。 進んで行くと、県道24号の交差点を過ぎ、右側の郵便局を過ぎ 、次の沓掛交差点を135号へ左折。そのまま進み、 前原交差点を(Y字交差点)右折。その後、凄くわかりにくいけど、 少し進んだカーブを過ぎて、逆井城跡公園の看板を左折。 少しすると右に逆井城跡公園の看板と共に 児童公園があるが無視し、そのまま直進すると、 本物の逆井城跡公園。 |
逆井城の歴史 | |
---|---|
逆井城は、飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、 城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していた。 飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなったが、 およそ幅1km、南北30kmにわたり、その名残を残している。 今から約410年前の戦国時代に、この飯沼が小田原の後北条氏と 佐竹氏、結城氏、多賀谷氏らの両国の境目だった。 進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1557) 10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくる為 大鋸引の職人を呼んでいる。城主となった氏繁は、盛んに佐竹、 下妻方面の動勢を報告しているが、翌天正6年(1558)にこの飯沼城中で 没し、その後氏舜が城代となった。 天正18年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も 廃城となった。(案内板より・絵図も) | |
船着場跡 | 入り江 | 入口の大きな冠木門 |
---|---|---|
二層櫓 | ||
戦国時代末期の時代背景を基に、外観二層の容姿を持つ戦国期の櫓を
復元したもの。近世の隅櫓ではない時代を感じる櫓として、
6m四方の平面を持ち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって
当時の景観を再現。(案内板より)
(右)井楼矢倉から。こっちは窓が無い。 |
||
二層櫓からの景色 | ||
(左&真ん中)重なってるけど、パノラマっぽく(^^) (右)入江や井楼矢倉を。雪が残っているから、寒かった〜(^^;) | ||
井楼矢倉 | ||
井楼矢倉は、米を蒸す蒸籠と同じ様に、井形に
組んだ方形材を次々と 組み上げた矢倉。役割は、 @物見矢倉として敵の動勢を監視する。 A見方の全軍の動勢を把握する。 など、軍事的なもの。 この様な矢倉の役割が発展、大規模化したものが近世城郭の 天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されている。 この井楼矢倉は戦国時代末期のものを復元したもの。 (案内板より) 1番上はかなり怖いらしい(笑)でも、写真はバッチリ撮れる(^^) |
||
関宿城門 | ||
関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、
本柱が門の中心線上から前方に、 ずれている薬医門と呼ばれるもの。 関宿城は、久世氏が城主を努めていたが、明治2年の廃藩置県により 久世氏は関宿知藩事となり、城も明治6年に大蔵省の所管となって廃城。 その後、建物の一部は民間に払い下げられ、残りの建物は取り壊された。 この時に払い下げされたものの1つが、この城門と伝えられ、 町内の鶴見栄助(つるみえいじょ)氏宅にあったものを移築している。 関宿城の城門がここにあるのか…(^^;)そして、 ここをくぐると、主殿へ。 |
||
主殿(関宿城門を入るとある) | ||
茨城県牛堀町で発掘調査された大台城遺跡発掘の折出土した 主殿遺構を参考に、復元されたもの。大台城は1595年頃に 築城されたもので、逆井城と同時代に存在していたもの。 構成は正面から見て右側半分が主室で、左側半分がその控室的な 部屋となっている。主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」 と言われるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものである。 前面には枯山水庭園が広がっている。 (案内板より) | ||
観音堂 | ||
大安寺(岩井市)にあったものを町が譲り受け、移築・復元した。
天正16年(1588)建立時の棟札と弘化2年(1845)再興時の棟札が
現存している。これにより、天正16年の上棟後、幕末に改造の
手が加えられた事が判明している。 しかし、木柄の大きな角柱の面取り、 舟肘木等はいずれも天正期特有の様式を良く残しているので、 非常に貴重な建築物として町指定の文化財となっている。 堂内は板敷で、天上は棹縁(さおぶち)天井となっている。 (案内板より) |
【 茨城のもくじ 】 | ■ 上へ ■ |