九戸城
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九戸城を九戸氏が居城としたことが、文献に最初に現われるのは、
九戸政実より4代前の九戸光政の頃(明応年間=1492〜1501)である。
南部24代晴政公は50歳まで嫡男が無く、娘婿の田子信直が
永禄8年(1565)世子となるが、その後、晴政公に54歳で
男子晴継が生まれ、信直は一旦その地位を退いたが、
天正10年(1582)に晴政、25代晴継(13歳)が前後して死去し、
同年37歳で南部家第26代当主となった。
この時、政実は、南部26代当主の座に弟を擁したが、敗れている。
天正18年(1590)豊臣秀吉は、小田原城攻略後、奥州仕置を開始。
小田原不参陣の諸将を追放するが、仕置軍が去ると残党が蜂起し、
不穏な状況となった。九戸政実はこの機に乗じ、
天正19年(1591)年、信直に対して兵を挙げる(九戸政実の乱)。
信直は苦戦を強いられ、秀吉に援軍を求めた為、
奥州仕置軍6万余を敵に回し、九戸軍5千でこの城に
立て籠もり戦う事となった。難攻不落の九戸城に苦戦した
仕置軍は、長興寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、
女子供や家来の命と引換に降伏を勧告、政実はこれを受けて
開門するが、これは実は謀略で、軍勢がなだれこみ、女子供も
撫斬りにされ、九戸城は落城した。
その後、秀吉の命で仕置軍の軍艦であった蒲生氏郷がこの城を普請し、
南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名、
27代利直が盛岡城に移る寛永13年(1636)に、福岡城は
廃城となった。(案内より)
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県道からそれる入口 |
パンフレットボックス |
堀跡 |
■大手門脇堀跡・・・九戸城の二の丸と松の丸、在府小路(武家屋敷跡)を
隔てる堀跡である。底での幅が60mもあり、日本の城跡で
見られる堀跡としては、最大級の立派なもので、
城の時期によっては水堀であった可能性もある。
(案内碑より)
車1台分の細い路地へ入って道なりに進むと、
左にパンフレットボックス、右に大手門脇堀跡の説明碑がある。
でも、パンフは二ノ丸でも貰える。堀跡は、真ん中に道路が通る状態なので、とっても大きかったのが分かる(^^)
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大手門跡 |
大手門跡から大手門跡横の堀跡と入口 |
大手門跡側から見ると、左側に堀、
右側に土塁に挟まれた道が(車がいる所ね)あるけど、
こちらも遺構?
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九戸城跡碑 |
九曜紋の幟 |
二ノ丸の浄化槽 |
大手門跡から入ってすぐ二ノ丸で、トイレがあるんだけど、
九戸城時代もしくはそれ以前に建物が建っていた場所に、
合わせて建てられたらしい。さすがに、トイレを写すのは
どうかと思ったので、トイレの東側に、古い時代の堀跡の向きに合わせて
建てられたという浄化槽を写してみた(^^)
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二ノ丸(パノラマっぽく加工) |
三ノ丸を除くと城内最大の曲輪であり、本丸をL字型に囲む形を
なしている。本丸、松ノ丸とともに直線的な造りであり、
本丸との間の空堀には石垣が築かれ、虎口は信長や
秀吉による全国統一が進行していた戦国時代末期
(16世紀後半)の築城様式である桝形とするなど
九戸城の中でも、近世的要素の強く見られる部分である。
得意に石垣は、古式穴太積と呼ばれるもので、これらは
九戸城落城後に、豊臣秀吉の命により蒲生氏郷が行った
城普請の際に、築かれた可能性が指摘されている。
(案内碑より)
見渡す限りの緑!
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