トロとまったり・tripのページ(屋島 その1)

香川県 屋島

かがわけん やしま

■屋島
駐車場=無料駐車場
■屋島ドライブウエイ=普通車610円
営業時間=6時半〜22時
■新屋島水族館=1200円
営業時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=年中無休 
(写真)高松港玉藻防波堤灯台より。(2008/5/3撮影)

2009/5/3現在

住所=高松市屋島東町
この時は、国道11号を走り、案内に従って屋島ドライブウエイへ。

屋島

屋島は瀬戸内海国立公園に指定された海抜293mの半島形溶岩台地である。 頂上部が平坦で、その形が屋根に似ている事から「屋島」と名付けられたとされている。

源平屋島古戦場

場所によって案内のイラストが違う♪

平安末期、源氏と平家の名高い古戦場の1つに屋島がある。 一の谷の戦で惨敗した平氏は、安徳天皇を奉じて屋島の檀の浦にその本拠を構えていた。 平氏の瀬戸内海における制海権は、いまだに強力であったからである。 敵は海路より攻めてくるものとばかり考えていた平氏陣営は、海側に警備を集中させていた。 兵船を海上に配置する一方で、入江を隔てた対岸の庵治の舟隠しに軍船500隻を待機させ、 源氏の軍船がやってきたら、挟みうちにするという計画だった。 ところが、寿永4年(1185)2月、源義経率いる源氏勢は、その裏をかいて船で直接屋島には向かわず、阿波の海岸に渡った。 この時、普通なら3日でかかるところを風に助けられて、僅か6時間くらいで到着したという。 そして時をおかず、2日がかりの道のりを一晩で一気に屋島まで進軍する。 屋島の内裏は火を放たれ、慌てふためいた平氏方は、船で沖へと逃げ出し、その後は壮絶な矢合戦となった。 義経の身代わりとなって討死する佐藤継信、那須与一の扇の的、義経の弓流しなど、数々のエピソードが展開された。 西へと落ちていった平家は、翌月の3月24日長門・壇ノ浦で滅亡した。(案内板より)

屋島ドライブウェイ碑
案内板
屋島&源平屋島古戦場

【左】駐車場の売店前の碑。屋島だ。
【真ん中】愛嬌いっぱいの可愛い狸(^^)
【右】左側の柱が屋島、右側の柱が源平屋島古戦場。

瑠璃宝池

そんな事を知ると怖くなる(@@)

別名「血の池」ともいい、屋島寺創建の時、宝珠を本堂の前に埋め、その周りに池を掘ったのでその名がある。 源平合戦の折、義経はじめ源氏軍が血刀を洗ったところ、池は真っ赤に染まったと言われている。(高松市の案内板より)

屋島寺

【左】南嶺駐車場からだと、東大門をくぐって屋島寺へ。 【右】屋島寺碑。

当寺は唐僧鑑真和尚過海大師が開創の基を開きその弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)と号した人が初代の住職となったと伝えられ、 初めは律宗であったが弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の八十四番の札所である。 本尊千手観音は平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で共に重要文化財に指定されている。 書院裏には名園雪の庭がある。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め貞応2年に鋳たものである。 なお源平合戦の遺物等陳列した宝物館があり、狸で有名な蓑山(みのやま)明神の社もある。(碑より)

本堂

【右】横には大きな狸が♪

この堂は、今から650年余り前の鎌倉時代末ごろに建てられたものだが、350年程前に竜厳(りゅうごん)上人が大修理をし、 昭和32年2月から解体して2度目の大修理を加え、2ヶ年を経て昭和34年5月に復元工事を完成したものである。(案内板より)

四天門

【左】表側。
【右】裏側。

仁王門

【左】表側。
【右】裏側。

可正桜
源平合戦供養碑
夢虫館

■可正桜(かしょうざくら)…この老桜は、高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして寛文5年(1665)に、 屋島寺石段の左右に七株を植えた。そのうち六株は枯れ、残った一株を現在の地に移植したもの。 可正は次の様な歌も残している。「花の時人きてもしも問うならば 可正桜と名を知らせてよ」 (高松市・高松観光協会の案内板より)

獅子霊巌

屋島寺の西150mの所、高松港に面した断崖に大きい岩が突き出ていて、 その形が獅子の頭に似ているので、こう呼ばれている。 弘法大師が屋島寺を建てた時、未だ完成しないうちに日が沈りかかったので、 大師はここに立って日を招いたところ、日が高く舞い上がったので、 1日の内に完成する事ができたという伝説がある。(案内より)

【パノラマっぽく加工】獅子霊巌から。 右=男木島。右から2番目=女木島(鬼ヶ島)。その左奥=瀬戸大橋方面。 女木島(鬼ヶ島)は、鬼が住んでいたという伝説がある島で、鬼の灯台が出迎えてくれるんだとか。

屋島城跡

屋島城跡は、南嶺と北嶺の中間で「櫓が丘」と呼ばれており山腹の石垣が古城跡である。 天智天皇の昔、白村江の戦いで敗れ、唐、新羅軍の侵入に備えて築城。 665年に長門城(山口県)大野城・きいの城(福岡県)を、667年にはここ屋島城と大和に高安城を築いた。 このことは「日本書紀」で明らかにされている。(高松市の案内板より)

【右】案内板の近くで笑っていた鬼の子。ふふ。可愛い(^w^)

談古嶺

山上三大展望台の1つ。明治30年村雲尼が登山の際、源平古戦場の史談を聞き源氏の武士や平家公達を偲び、談古嶺と命名。 眼下に屋島檀の浦、安徳天皇行宮跡、源平合戦の華那須与一の扇の的、駒立岩に祈り岩。 源義経弓流しの跡、佐藤継信の墓、菊王丸の墓。また対岸には五剣山が聳え、平家が軍船を隠した船隠し湾等がある。(高松市・高松観光協会の案内板より)

【右】船隠し。

【パノラマっぽく加工】談古嶺からの景色。

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