【石垣山一夜城 その1】

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神奈川県 石垣山一夜城  かながわけん  いしがきやまいちやじょう
■石垣山一夜城(別名=太閤一夜城)
■石垣山一夜城歴史公園=見学無料
駐車場=無料駐車場(トイレあり)(2005.3.13現在)
住所=小田原市早川字梅ヶ窪地内
広域だと東名高速道路 厚木I.Cから小田原厚木道路を走って、 小田原西I.C〜国道1号〜で、 板橋交差点を右折。踏み切りを渡って、 川を越えて信号を左折。直進はターンパイクになってしまうので、 注意。石垣山一夜城の看板が出てきて、 右折。新幹線の手前を右折して、また右折して道なりに山の方へ走る。 着いたら道を挟んで左が広い駐車場で、右は少し。石垣山一夜城へ登る道は 右の駐車場の方が近い。

石垣山一夜城 (写真をクリック→拡大)
石垣山は、笠懸山、松山などと呼ばれていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を、水陸15万の大軍を率いて包囲し、 その本営として総石垣の城を築いた事から石垣山と呼ばれるようになった。 この城が、世に石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、 秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、 白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を 伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失った為と言われている。 しかし、実際は4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされた。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に、天皇の勅使を迎えたり、 千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せた。 また自ら淀君等の側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われている。 この城は小田原攻めの本営であるというだけでなく、 太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえる。 この城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆 による野面積といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、 度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡である。 (小田原市の案内板より)
駐車場の城祉碑 駐車場の近くの旧城道 東登口
南曲輪跡へ続く道 二の丸(馬屋曲輪)までの石 二の丸(馬屋曲輪)に入ると…
かなり大きな石垣の石が転がってる。 いたる所で石が見る事が出来る。 何だか好きな空間だったので。
櫓台跡(馬屋曲輪) 二の丸(馬屋曲輪) 二の丸(馬屋曲輪)から見た本丸
■馬屋曲輪… 本城に匹敵する広い面積を有する曲輪。伝承名によれば馬屋が置かれたと思われ、 本丸寄りには馬洗い場と称する湧水もある。構成上二の丸としての機能も 備えていたと思われる。
本丸(本城曲輪) 本丸(本城曲輪)へ続く道 本丸(本城曲輪)の石垣
■本丸… 標高255〜257m。面積約7,500平米で、曲輪面としての専有面積は最大。数地点のトレンチ調査により、 地盤は西高東低傾向をもち、曲輪面は削平と盛土よって造成されている。 天守台寄りでは、建物の礎石や直径15cm前後の扁平円礫の敷設面が検出されており、 それなりの施設を備えた建造物群が存在した可能性がある。
本丸(本城曲輪)の門の基台跡(北門) 本丸跡(本城曲輪)
■北門… 本城側の掘込み状の桝形地形と、馬屋曲輪側の高壇状の張出し地形と の組み合わせにより、独特の城門(虎口)構造が注目される。 石垣山城遺構の特色の1つ。
本丸跡(本城曲輪)の石碑 本丸から見た二の丸(馬屋曲輪) 本丸跡(本城曲輪)のひょうたん
北曲輪にあった展望台よりもこちらからの 方が、小田原城がよく見る事が出来る♪ ここでお城のパンフを貰った。
本丸からの景色 本丸の石碑
本丸から見た小田原城(真ん中辺りに見える) 左の写真の小田原城だけを大きくしてみた

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