【津久井城 その1】

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神奈川県 津久井城 かながわけん つくいじょう
■津久井城(別名=築井城)
■県立津久井湖城山公園=見学自由
※「城山」「根小屋地区」「花の苑地」「水の苑地」
駐車場利用時間=8時〜19時(※19時に閉門)
駐車場=無料駐車場(何ヶ所か有)(2006.4.9現在)
住所=相模原市津久井町・城山町・太井
中央自動車道 八王子I.Cを国道16号(相模原・町田)へ下りて、 八王子バイパス(有料)を走り、町田・高尾(相原)を下りる。 県道47号高尾交差点を右折。 (注:八王子バイパスを下りた後、少し?だったので、参考程度に。) 線路を渡って、小学校過ぎて、 カーブを過ぎて、相原十字路交差点を城山へ左折。 東原宿信号を国道413号へ右折。そのまま進み、久保沢信号を右折。 進むと右に駐車場がある。

津久井城 (地図写真をクリック→拡大)
津久井城は、築井城とも書く。鎌倉時代の初期、三浦一族の津久井義行の子、為行 (津久井太郎次郎義胤)が宝ヶ峰に築城し、城下一帯を津久井領としたのが津久井の 地名の起源と伝えられる。 戦国時代、小田原の北条早雲は家臣、内藤左近将監景定を 城主として、津久井城の修復を図り、呂の字型で階段的連郭式、 根小屋式山城を完成させるとともに「津久井衆」という独特の家臣団を編成し、 甲斐の武田氏に備えた。 城主景豊の時、永禄12年(1569)北条勢1万2千、 武田勢2万が南方の三増峠(みまませとうげ) で激突した三増峠の戦いは、大山岳戦として戦国史に残る激戦であった。 天正18年(1590)6月25日、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し、徳川勢1万1千の軍勢に 攻められて落城した。山頂には、文化13年(1816)島崎得太郎律直が5万両もの 私財を投じ、幕府の老中首座にあった松平定信ら文化人達の協力によって建立した 古城碑が建ち、往時を偲ばせている他、実践に耐え抜いてきた空堀や堀切等の遺構が 残る。城下には、お屋敷、馬場、馬屋敷、信玄道、首塚(富士塚)、城主内藤家の 菩提寺功雲寺等の史跡が散在している。 (右=慶安絵図:狛江市・石井義兼氏所蔵・案内板より)
入り口の階段 かながわの景勝50選 桜の小道にあった石垣
駐車場を渡って、階段を上がっていく。 この辺りも緩やかな坂道なんだけど、 序の口で(^^;)
とば堀橋 とば堀 登山口
いまいち道が分かんないまま進んで行くと、 1番右の写真の道に!かなりキツイので、 親子がUターンしていった(^^;)
竪堀 鷹射場方面へ。堀切?
とば堀の上に続いている竪堀。 ここまで、鎖を握って登ったり、 急坂を登ったり大変だったので鷹射場はパス。   
宝ヶ池
宝ヶ池は、津久井城の水の手(溜井)の1つ。江戸時代の地誌 「新編相模風土記稿」は、「日照りや雨が続いた年でも、いつも安定して 水をたたえている」と記している。水が白く濁っている事から、 城兵が刀を研いだとも伝えられる。又水が枯れないところから、 雨乞いの行事にも使われた。宝ヶ池の他、本城曲輪の 北側と御屋敷跡で井戸跡がみつかっている。 (案内板より・絵図も)
津久井城から(ダム方面) 竪堀
山登りをしていると、ちょっとした景色も素敵〜(^^) 竪堀って見ると竪堀だけど、写真では難しいな(笑)
烽火台と鐘撞堂
この付近は烽火台とも鐘撞堂とも伝えられる。戦国時代、城や砦の間の情報伝達には、 天気の良い時には、烽火(狼煙とも書く)や旗、吹流しなど、また夜間や雨の日には鐘や 法螺貝などの「音」が使われた。津久井城周辺には、敵に備え多くの砦や烽火台が築かれていた。
江戸時代の中期に大阪の医師寺島良安により編集された百科辞典 「和漢三才図会」を参考にして復元された井桜矢倉式の烽火台。 (跳ねつるべの先に火種を取り付けて空中に上げる様式) 烽火は狼の糞を火種にした事から狼煙とも書くが、 狼の糞は、真っ直ぐに上がり風にも強いと伝えられる。 また煙草や青松葉、火薬、松等も使われていたようである。 (案内板より)
(右下)山梨県の若神子城。
烽火台からの景色
なかなかいい眺め♪ベンチもあって、ゆっくり出来る。 昔はここからチェックしたのかと思うと景色も違って見える(^^) 眼下に北条・武田の古戦場三増峠、志田山、そして開発が進む金原平野。 前方には、丹沢の山並みが広がる。

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