トロとまったり・tripのページ(佐敷城 その1)

熊本県 佐敷城

くまもとけん さしきじょう

■佐敷城(別名=花岡城)=見学自由
■城山
駐車場=無料駐車場
(写真)追手門跡。

2012/5/3現在

住所=葦北郡芦北町佐敷
この時は、佐敷駅の西側の国道3号を北へ進み、花岡信号で、案内に従って県道27号へ右折。 陸橋を渡って、県道をそれて直進。その後は、案内に従っていけば駐車場。 ※道中の右左折が細かいので省きます(^^;)

佐敷城

佐敷城は、16世紀後半に肥後国(熊本県)を治めた加藤清正が薩摩国(鹿児島)や球磨、 天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築いた近世城郭で、城山(標高87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、 山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できる。 加藤清正の重臣・加藤与左衛門重次がここの城代を務めた。肥薩国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは2度、 直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っている。 文禄元年(1592)豊臣秀吉の命令で朝鮮半島に出陣(文禄の役)した隙を突かれ、 薩摩の梅北国兼に一時乗っ取られる事件(梅北の乱)が起こり、この後に、第1回目の改築が行われている。 慶長5年(1600)に関ケ原の戦いに関連して、島津軍に包囲される事件も起こった。 この後、大改築が行われ、本格的な近世城郭になった。 大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり壊されるが、寛永15年(1638)、 天草・島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊された事が、古文書や発掘調査等により確認された。 城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違い等から三時期に分けられ、 築造技術の進歩を一体的に確認することができる。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊す等、「城の壊し方」の痕跡が確認されている。 発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄・慶長の役に際し、 朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土した。 また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに魚の骨や貝殻が出土した。 (熊本県の案内板より・絵図も。右=佐敷番代屋敷跡にあった案内より、芦北郡佐敷之図)

佐敷城跡の碑
登城口
ど〜んと石垣が!

【左】どちらも佐敷城跡の碑。
【真ん中】左の写真の左側の道から登る。
【右】二の丸の北西側の石垣が見えてくる。

北〜西側の石垣

【左】パノラマっぽく加工。到着した途端、素敵な石垣が(^^)平たい石段がある所が搦手門跡。

【右】この付近からの景色。

東〜北側の石垣

【左】パノラマっぽく加工。
【右】左の写真の左端。下部が慶長時代の石垣。上部は保存整備事業による石積み。

北側の下方の石垣

【左】搦手門から北側の石垣の下(左カーブの側面)に石垣がある。
【右】逆から。最初、草で気付かず、この角度で「あれ?石垣?」 …なんて。気付いてよかった。カーブ具合がきれいだなぁ(^^) 草が生えていなかったら、また違う印象だろうなぁ。

搦手門

【左】角度を変えると、石段があるように見えなかった(@@)下に広めの数段があるから、なるほど…と。
【真ん中】正面から。上がって右折れ、本丸西門を通る感じ。石段の奥に見えるのが、本丸西門の石垣。
【右】搦手門に向って左側の石垣を角度を変えて。本丸北西方面の石段から搦手門へ続く。凄いなぁ…。

本丸西門

【左】こじんまり。
【真ん中】白い案内がある所が、桐紋の鬼瓦出土地点。
【右】左奥が、本丸北西側への入口。

本丸の北西側

【左】本丸西門から上がって、左側の本丸北西側の石段。
【真ん中】石段を上がって、食い違いに。
【右】振り向いて。

本丸北側の道

【左】食い違いの後は、細い道がストーンと通っていて不思議な感じ。
【真ん中】写真正面が本丸東門方面、右側の石段が本丸への入口で、下に礎石の様なものがある。
【右】本丸への石段から振り返って。

本丸

南へ長く続く二の丸も見えたし、景色も凄く良かった(^^)

本丸の石垣

【左】本丸西門を上がって、本丸へ向かう石段の右側の石垣から本丸の西側方面を。長く続く姿が格好いい♪
【真ん中】鏡積みの石垣なんだそう。薄い板石を用いて積んだ石垣が、鏡積みらしい。本丸の他、追手門等、確認されてるそう。
【右】本丸東門を出て東側から。

【左】本丸南側。
【右】もっとズームすればよかった(^^;)

▲上へ戻る