くまもとけん とみおかじょう
■富岡城(別名=臥龍城)=見学自由
■富岡城公園
■富岡ビジターセンター=無料
開館時間=9時〜17時(入館は16時45分まで)
休館日=毎週水曜(祝日の場合は翌日)
駐車場=無料駐車場(数ヶ所あり)
2010/4/30現在
住所=天草郡苓北町富岡
この時は、国道324号と389号が同じ道を西へ進み、富岡方面の国道324号へ。後は、案内に従う。
【左】(切り取り加工)袋池側からの遠景。
かつて苓北町は、数百年に渡り天草の中心として栄えた。 1205年からおよそ400年もの間、志岐氏が統治する時代が続き、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎える。 その後、徳川時代には唐津藩によって統治され、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602)頃に、富岡城が築かれた。 世間では本城の唐津城を「舞鶴城」、支城の富岡城を「臥龍城」と呼んだ。 寛永14年(1637)「天草・島原の乱」で、富岡城は幕府側の拠点として一揆軍から3回の攻撃を受けたが、唐津藩の必死の守りで落城を免れた。 このことが、乱の早期終結と後の徳川幕府の安定をもたらしたといわれている。 乱後、山崎甲斐守家治の領地となり、築城の名手と謳われた山崎氏は、大規模な修築及び拡張を行い、現在見られる富岡城の形が完成した。 この時期、江戸幕府は海外列強の侵略を恐れて、鎖国政策を進めており、乱を契機に外洋に面した国内最西端の富岡城を、列強からの守りの最前線基地として位置づけたものと思われる。 山崎氏の後に天草は天領となり、初代代官・鈴木重成(しげなり)、重辰(しげとき)の時代を迎える。 後に再び私領となり、戸田忠昌(後に老中に昇進する)が城主となるものの、寛文10年(1670)に富岡城は破城。 寛文11年(1671)に戸田氏は領地替えとなった。 富岡城は約70年間存続したが、破城後も三の丸に代官所が置かれ、明治初期まで富岡は、天草行政の中心としての役割を果たした。 現在、富岡城の本丸跡に「熊本県富岡ビジターセンター」を開設。さらに櫓・高麗門・白塀等が復元され、当時の面影を偲ぶ事ができる。(案内板より・絵図も)
【左】かなり高台に建っているので、あちこちから見ることができる♪
【右】袋池と富岡城。この姿だけで、ワクワクする!
【左】ここまでの道中に(北東)駐車場があるけれど、近場を選択。
【真ん中】急坂を上がると…。
【右】どーんと石垣が!
【左】右上の写真の左側の道。案内図には無かったけれど、ここにも駐車場(写真左側のそれた所)があった…。
【真ん中&右】二の丸の西側の石垣と本丸方面。奥に見えるのが、本丸多聞櫓を模した富岡ビジターセンター。
天草は、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの後、唐津の寺沢広高の領地となった。寺沢氏は天草統治のため慶長7年(1602)から富岡城を築いた。 寺沢氏の支配時代の寛永14年(1637)に天草・島原の乱が勃発し、富岡城は一揆軍から攻撃を受けたが、寺沢氏の必死の守りによって落城は免れた。 天草・島原の乱後、山崎家治の領地となった。この時、幕府は資金を与えて富岡城の修復を命じ、約3年をかけて新たに大手門や百間土手を築き大修復を行った。 その後、鈴木代官の天領時代を経て、戸田忠昌支配の寛文10年(1670)に、当地に城は必要ないということで、富岡城は破却された。 町では、富岡城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認した。 一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆軍との攻防戦の跡が石垣表面に残っている。 二番目の石垣は、この石垣を隠す為に急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられる。 手前の石垣は、天草・島原の乱後の領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたものである。 このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見る事ができる大変貴重なものである。(苓北町・苓北町教育委員会の案内板より・発掘写真、絵図も)
今では、とてもきれいな石垣だけど、歴史が詰まってる(^^)
【左】黒い石は昔の?なんて、高石垣を見つつ左へ。
【真ん中】次は右に折れて…。
【右】その前に振り返って。
ここの列は、全部振り返り(笑)
【左】右に折れたら左へ。
【真ん中】左に曲がって…。
【右】最後は左折で二の丸へ。
二の丸には、4人の銅像が設置されている。 薄暗い中の銅像は怖いけど、夕景が凄くきれいだった〜(^w^)
■鈴木重成…
天草・島原の乱後、寺沢堅高(かたたか)の後を継いだ山崎家治が富岡城の立て直しを終えると、
寛永18年(1641)に天草は天領となり、初代代官として鈴木重成が赴任した。
重成は、行政組織を整備し、実兄の正三和尚の助言を得て、
寺社を復興して民衆教化を図り、荒地を開拓して各藩からの住民の受け入れを促進した。
特に、天草の石高4万2千石が過大で、乱の一因であった事を痛感し、幕府に半減を再三、上申したが容認されず、
抗議の意味で、江戸駿河台の自邸で切腹したと伝えられる。
その後、重成の願いは幕府に認められ、重辰代官時代の万時2年(1659)、石高2万1千石へ半減された。(案内板より)
■鈴木正三(しょうさん)…鈴木重成の兄。
関ケ原の戦いなどで活躍し、旗本に取り立てられたが、42歳の時に弟の重成に家督を譲って出家した。
その後、代官となった重成の依頼によって、63歳になっていたが、天草の地に赴いて3年間滞在し、政策顧問として補佐した。
晩年は江戸に住み、明暦元年(1655)に77歳で生涯を閉じた。
天草の人々は重成、正三、重辰の遺徳を偲んで、島内の各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、鈴木神社も造営されている。(案内板より)
【左】天草の恩人「鈴木重成」(右奥)と「鈴木正三」(右手前)。
【右】日本の恩人「勝海舟」(手前左)と「頼山陽(らいさんよう)」(手前右)。