くまもとけん やつしろじょう
■八代城=見学自由
■八代城跡公園
駐車場=無料駐車場
2010/5/1現在
住所=八代市松江城町
この時は、九州自動車道 八代I.Cを下りて、右の八代・水俣方面へ。
国道3号を進み、途中で国道3号が左折になる所を直進し、
進んで行くと城の案内板が出るので、それに従って右折し、次も案内板に従って左折。
市役所を過ぎた堀手前の道を右折、少しして左側に駐車場。
小さい案内板をクリック→拡大。
元和元年(1615)に一国一城令が出され、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制が特別に認められていた。 しかし、同5年の大地震によって、麦島城は崩壊。熊本藩主の加藤忠弘は幕府の許可を得て、 城代の加藤正方(まさかた)に命じて、徳渕(とくぶち)の津北側に城を再建し、8年2月に竣工した。 これが、現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国二城体制が続く事となった。 寛永9年(1632)、加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、 忠利の父・細川忠興(三斎…さんさい)と四男・立孝(たつたか)が八代城に入城した。 忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所には名木臥龍梅を植え、茶庭を設けた。 正保2年(1645)閏5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没した。藩主細川光尚(みつなお)は、 八代城を細川家筆頭家老でかつ将軍直臣の身分を持つ松井興長(おきなが)に預けた。 これ以後、2代寄之(よりゆき)・3代直之と代々松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くした。 明治3年(1870)に八代城は廃城となり、13年に、八代町民の願いが適い、 南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王顕彰のために、本丸に八代宮を設置する事となり、 同年官幣中社に列せられる事となった。同16年に社殿が落成し、南側石垣部分を開いて参道を設け、 翌17年4月に神霊鎮座の大祭が執行された。同19年1月には良成(りょうせい)親王が配祀され、現在に至る。 例祭は8月3日。境内には本殿を中心として、拝殿や直会殿等が設けられている。(八代市教育委員会の案内板より・図も・古絵図は碑より)
【左】市役所辺りが二の丸跡。
【真ん中】堀に突き出た駐車場も二の丸。
【右】正面石垣の右端が本丸の三階櫓跡。
【左】駐車場側から。
【真ん中】左の写真の石垣と欄干橋方面。
【右】欄干橋から。手前が、高麗門の桝形の石垣。
欄干橋は、木造の太鼓橋だったが、現在はコンクリート製の橋。 八代城築城の年である元和8年(1622)銘の擬宝珠が現存している。(八代市教育委員会の標柱より)
【左】左側が二の丸。橋を渡って本丸へ。
【真ん中】正面が高麗門跡。
【右】本丸・磨櫓跡から二の丸方面。
ここは、八代城本丸正門にあたる表桝形門の一の門(幅二間一尺)があった所で、 「高麗門」または「欄干橋門」とも呼ばれた。桝形門は四方を石垣で囲み2ヶ所に門を設けたもので、 高麗門を通り抜け、右に直角に曲がった所に二の門(東西九間・南北三間・櫓門) である「頬当門(ほおあてもん)」あった。 これは、外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐとともに、敵の側面及び背面から攻撃する為である。 寛永9年(1632)、加藤氏の改易後、八代城に入った細川三斎(さんさい)は、 高麗門を加藤氏ゆかりの本成寺(ほんじょうじ)に奉賽し(寛永11年)、現在も同寺の山門として現存(再建)している。 (八代市教育委員会・製作/八代経済開発同友会の案内板より)
【左】欄干橋から。高麗門を通って、右折れで頬当門へ。
【真ん中&右】本丸・磨櫓跡付近から見下ろして。
【左&真ん中】本丸・磨櫓跡から見下ろして。
高麗門、桝形を通り、右折れの所が頬当門跡。
【右】振り返って。
【左】上の写真の石垣。凄く高い!
【真ん中】頬当門を通り、左折れの所を振り返って。
【右】本丸東側の石垣上から。
【左】本丸には八代宮が立つ。
【真ん中】上の写真の桝形の石垣。南東側から。長い♪
【右】石垣上には3つの櫓跡。
磨櫓は高麗門の南側にあり、東西四間・南北七間を測り、本瓦葺の入母屋造の屋根を持つ平櫓だった。 南側の宝形櫓との間には長さ十六間の総白塗込めの塀が続いていた。(八代市教育委員会の標柱より)
【左】欄干橋から磨櫓跡(手前)。奥が、宝形櫓跡。
【真ん中】左側が高麗門跡。正面が櫓跡。
【右】宝形櫓跡から。
宝形櫓は方形櫓とも表し、一階は四間四方、二階は三間四方の大きさの二階建て櫓である。 屋根が頂上に路盤宝珠をのせる宝形造りは仏事によく見られる形で、この宝形櫓の二階は仏殿になっていたものと思われる。 (八代市教育委員会の標柱より)
【左】磨櫓跡から宝形櫓跡方面。
【真ん中】櫓跡。
【右】宝形櫓跡から舞台櫓方面の三十間櫓跡。
舞台脇の櫓は、梁間四間・桁行九間の建物で、再建後は桁行十二間となった為、十二間櫓とも呼ばれる。 本瓦葺・入母屋造りの屋根を持ち、二層二階の櫓である。 東側の宝形櫓との間には、梁間三間・桁行三十間の三十間櫓とよばれる平櫓が続く。 (八代市教育委員会の標柱より)
【左】宝形櫓側から。
【真ん中】舞台脇の櫓跡から宝形櫓跡方面。
【右】参道の橋から舞台脇の櫓の石垣を。