亀山公園 |
亀山公園から見た本丸 |
亀山古城跡 |
亀山公園から先にずっと続く公園。遊具やら芝生の公園を越えると、
歴史博物館へ行く事が出来る。
|
|
|
|
タヌキ(^^) |
歴史博物館の亀山城模型 |
可愛いタヌキの遊具が!ツボっ! |
館内には亀山城の大きな模型があって、見ごたえがある(^^)
|
|
|
|
二の丸
(案内板の写真をクリック→拡大)
|
亀山城内最大の曲輪で、現在の亀山西小学校・亀山市役所の
付近一帯が二の丸にあたる。本丸が将軍の旅館として整備された
経緯もあって、二の丸が城主の居館であるとともに、亀山藩の
政庁である「居屋敷(御殿)」と、その別棟である「向屋敷」が
置かれた。亀山城内で最も建造物が多く、御殿のほかに外周には
三階櫓である太鼓櫓、二階櫓である神戸櫓・向屋敷櫓・石坂脇櫓、
平櫓である二の丸北櫓が建ち並んでいた。また、西の丸からは石坂門、
三の丸からは太鼓門でつながり、それぞれに門櫓を持つ枡形が
設けられていた。二の丸の南北にある帯曲輪には埋門から出入りした。
なお、二つの御殿には馬場が設けられていた。
居屋敷は、古写真が残る文久2年(1682)段階のもので建坪665坪(約2195u)
あり、これに土蔵や長屋などが附帯していた。この御殿は明治4年(1871)に
取り壊されたが、式台と大書院が西町遍照寺本堂として移築現存している。
また、学校改築事業に伴い平成15・16年度に発掘調査が行われ、
室町時代後期からこの場所に城が構えられていることと、御殿が少なくとも
3回の建て替えがあったことが確認されている。
(亀山市教育委員会の案内板より・絵図と古写真も)
|
亀山西小学校(二の丸御殿跡) |
市役所(二の丸の向屋敷跡) |
(真ん中)二の丸広場から、フェンス越しにグラウンドを写した。
誰もいない下校時間で良かった〜(^^;)
|
|
|
|
太鼓櫓跡 |
東三の丸から二の丸への出入口となる枡形を固める
三間四方の小規模な三階櫓で、最上階に時を告げる太鼓が
置かれたことから太鼓櫓の名がある。17世紀半ばの段階では
存在していなかったものとみられ、江戸時代中頃になって
築造されたものと考えられる。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、
遅くとも文久2年(1862)には再建されている。
平成13年にこの「姫垣外苑」の整備である「くらしの道づくり事業」に
伴う発掘調査で太鼓櫓石垣の基底部が発見されている。
この石垣の石材は、表面が平坦になるように細かな調整痕跡が
みられ、直線的な石垣であったことがうかがえる。
また、裏込石の入る幅が狭いことから、それほどの高さを持たない
石垣と考えられる。この石垣は埋め戻して保存され、その位置や
形状を歩道に平面表示した。なお、太鼓櫓の下層からは、戦国時代末期の
空堀が確認されており、近世亀山城の祖形がこの時期にまでさかのぼる
ことを示している。(亀山市教育委員会の案内板より・写真も)
|
|
|
|
神戸櫓跡 |
帯曲輪の土居 |
二の丸広場への入口通路 |
今回撮り直せばよかった(^^;) |
公園を経由したから歩く歩く…(^^;) |
本来は堀で、整備の為に作られた道。 |
|
|
|
二の丸広場(二の丸御殿跡) |
築山 |
二の丸御殿の礎石 |
■築山…御殿の庭に作られた小山。古い図面に書かれている場所に、
発掘調査で見つかった瓦で位置を示している。
■二の丸御殿の礎石…
石の1つには、柱をすえたとみられる四角のほり込みがあり、
殿様の居る二の丸御殿の礎石と見られる。また、黒い玉石は
二の丸御殿の玄関前に敷き詰められていたものである。
これらの石は、亀山西小学校の工事前に行われた発掘調査で
見つかったものである。(案内板より)
見つかった瓦の使用!沢山出てきたんだなぁ。
|
|
|
|
埋門 |
埋門は、二の丸御殿と帯曲輪の間に作られた小型の門である。
半分地下に潜るように作られているので、埋門と呼ぶ。
亀山城にある6ヶ所の帯曲輪への出入口はすべて埋門だった。
この埋門は、今から130年ほど前に亀山城のほかの建物などと
ともに取り壊され、埋められていたが、平成15年の発掘調査で
通路や石垣が発見された。
幅1.8mで、はじめは門の幅がもっと狭かったのだが、その後、西側に
60cmほど広げられている。また、江戸時代の終わり頃に、石垣の積み直し
が行われている。門の柱を載せた平たい大きな石(礎石)の辺りには、
黒い玉石が敷き詰められていた。埋門の上には二の丸北櫓という建物があった。
今の姿は、発掘調査で発見された様子をそのままにしている。
(案内板より)
|
|
|
|
二の丸帯曲輪 |
帯の様な細長い形をしているものが帯曲輪である。
亀山城には帯曲輪が6ヶ所あった。
この帯曲輪は東西43m、南北6.5mあり、殿様の居る二の丸御殿とは
隣あっている。帯曲輪には建物は無く、石を組んだ溝が巡らされて
いたことが発掘調査で分かった。また、溝には石を組んだ大きな水
ためが作られており、帯曲輪の中に作られた庭や、お花畑等に
水遣りをしていたものと考えられる。城を守る為の帯曲輪が、
戦いの無い時代が続いたので、庭やお花畑など平和な使われ方に
変わっていったことが分かる。なお、見つかった溝や水ためは、
埋め戻してそのまま残したうえで、全体を江戸時代の終わり頃の
様子に復元した。(案内板より)
(左下=二の丸土居&帯曲輪、
下真ん中=石組溝、右下=石積み)
|
|
|
|
土塀 |
亀山城の外まわりは全て土塀で囲まれており、その全ての長さは
約2.6kmもある。帯曲輪の土塀は古い絵図面に描かれているので、
土塀があったことは間違いないのだが、発掘調査ではその跡は
見つからなかった。この為、140年ほど前に撮影された亀山城の
写真に見られる土塀の形と作りを元に、昔の方法を用いて作り直した。
なお、一部は新しい方法も取り入れている。この土塀は木組みに壁土を
塗り込んだもので、中が太鼓のように空になっているので、
「太鼓塀」と呼ばれる。瓦は、亀山城で使われて
いた瓦から型をとって焼き直した。丸い軒瓦の模様は、亀山城主であった
石川家が使っていた紋の1つである「蛇の目」である。
なお、普通、城の土塀には鉄砲を打つ小さな窓(狭間)を
開けているのだが、古い写真では狭間は1つも見られないので、
今回作り直した土塀も狭間が無いものにした。(案内板より)
|