大手門跡 |
大手門は、東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門である。
大手門櫓と大手脇櫓から構成される枡形門で、一の門が省略されたものと
なっている。
大手門櫓は総塗籠、幅三間、長さ十二間で、明治初期に撮影された
古写真から、東半分が櫓台となる石垣の上に載り、西半分の下が
門となっていたことがわかる。屋根は入母屋造本瓦葺で両端に鯱を
あげ、門は中央に両開きの大扉を持ち、正面左側に片開きの脇戸を
配していることがうかがえる。また、大手脇櫓は二間半×三間の平櫓で、
屋根は切妻造本瓦葺であった。
明治初頭には石垣にいたるまで破却され、往時の形状を見ることは出来ないが、
発掘調査により、枡形石垣の痕跡が確認されている。
(亀山市教育委員会の案内板より・古写真も)
派出所の駐車場にも「大手門跡」の棒が。
|
|
|
|
高札場 |
家老 名川大右ヱ門氏家 |
高札は江戸時代、法度(法令)、掟書等を記し、
また罪人の罪状を記して人目を引く所に高く掲げた
板札の事で、掲げた場所を高札場といい、亀山城下では
大手門前に設けられていた。
町の人々は、高札場の周りの清掃や、高札場の前を通る時には、
敬意を表すことが義務付けられる程、幕府の権威を示すものだった。
寛文9年(1669)4月の亀山の高札は、喧嘩口論の禁止から借り物の
返済に至るまで、九ヶ条が示されている。
(きらめき亀山21 町並み保存分科会の案内より)
|
東三之丸にある屋敷跡。 |
|
石坂門跡(下3枚=亀山市歴史博物館) |
この石垣は、発掘調査(平成11年7月〜11月)によって地上に現れた、
石坂門石垣と側溝部分を移設復元したもの。
石坂門は、亀山城本丸と二之丸の間の南側斜面に建つ櫓を備えた
西向きの門。城主本多俊次時代の文献には、まれに「坂口門」とも
表記されている。(「正保亀山城絵図」亀山市歴史博物館蔵)
そして、石坂門も坂口門も「坂」という字が共通しているのは、
坂(斜面)に建つ門として存在していたからであろう。
その意味から、ここに移設復元している石坂門の石垣も、発掘
データに基づいて斜面に設置した。
隠れた部分には、裏込石がぎっしり詰まっており、表側の石を
安定させるとともに、水はけを良くし、石垣の崩壊を防いでいる。
また、土台と呼ばれる土の部分によって、表側の石と裏込石を
支えている。(亀山市教育委員会の案内板より)
|
|
|
|
侍屋敷遺構加藤家長屋門及び土蔵 |
加藤家長屋門は、亀山藩主石川家の家老職、加藤内膳家の正門であった。
加藤家は、延享元年(1744)石川総慶(ふさよし)の備中松山(現 岡山県高梁市)
から伊勢亀山への移封に従い、現在地(亀山城南三之丸)に屋敷を構えた。
加藤家屋敷は、文化9年(1812)に藩主御殿が焼失した際、仮御殿に使用された
ほどの屋敷であった。明治以降は、母屋の建造物の大半が他所へ移築されたが、
長屋門・土塀・土蔵は保存された。昭和62年に、長屋門が亀山市へ寄贈されたのを
機に、先に寄贈された土塀・土蔵と供に調査を実施し、家相図なども参考にして、
幕末当時の姿に復元した。
長屋門は、平面積約91.8uあり、入母屋棧瓦葺で、内部は男部屋・若党部屋・
物見・厩の四部屋に分かれる。西端に土蔵があり、土塀によって長屋門に
つながる。創建時期は江戸時代中期以降と推測される。(亀山市教育委員会の案内板より)
入っていいの?なんて、恐る恐る(笑)
|
|
|
|
西之丸庭園 |
青木門跡 |
|
元和元年(1615)4月16日徳川家康が大阪へ出陣の時、伊勢路に入って
亀山に宿泊した。城主松平忠明出征中で留守を守る家臣が接待に当たった。
翌17日、亀山城三之丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に
繁茂した青木を見て「おお青木」と賞賛したので、この周辺の土地を
青木と称した。また門を「青木門」と呼んで家康を敬慕したと伝えられる。
(標柱の案内より)
|
明倫館跡 |
黒門跡 |
屋号札 |
今は、亀山中学校になって
いる明倫館跡。その付近には、
右の写真の黒門跡もある。
|
西之丸から市ヶ坂へ出る門で、享保
20年(1735)に焼失するまでは、市ヶ
坂門とも呼ばれた。(亀山市教育
委員会の案内より)
|
宿場の賑わい復活プロジェクトだ
そう。「さかもとや跡」「せんべい
や跡」なんて、見つけながら、
歩くのも楽しい(^^)
|
|
|
|
京口門跡 |
亀山宿の西端、竜川左岸崖上に東海道の番所として寛文12年(1672)
当時の亀山藩主であった板倉重常によって築かれた。
石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、亀山城の一部としての機能を
充分備えていた。崖を上る坂道の両側にカラタチが植えられ、下から
見上げると、門・番所のそびえる姿は壮麗を極め「亀山に過ぎたるものの
二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた。
この様な門は他の宿場には見られず、安藤広重「東海道五十三次」のうち
「雪晴」をはじめとする風景画の舞台となった。
(亀山市教育委員会の案内板より・古写真も)
梅巌寺の近くなのだ。
|
遍照寺(二の丸御殿玄関) |
遍照寺の山門 |
遍照寺の本殿は、二の丸御殿玄関を移築したもの。
鬼瓦には笹りんどうが。
|
鯱の形が面白いのでUPしてみた。
|
|
|
|