桑名城
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戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城とと呼ばれる城があった。
戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)
の支配を受けた。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めた。
桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城
(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれている。
桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)である。
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の1人で腹心の本多忠勝を
桑名に配置した。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、
近世城郭を造った。
同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し
町の守りとした。忠勝の行った町づくりを「慶長の町割り」と呼ぶ。
桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出る事が出来た。
天守閣は四重六層の勇壮なものだったが、元禄14年(1701)の大火で
焼失し、以後は再建されなかった。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)
の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヶ所、櫓は95ヶ所とある。
しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、
藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で
降伏した。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は
兵火を免れた。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓
を焼き払い、桑名城落城のしるしとした。その後桑名城の石垣は取り払われ、
四日市築港の資材とされた。(案内板より)
■桑名城&九華公園…
昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居の号)没後100年祭を
記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として
整備した。桑名城はその形から「扇城」と呼ばれた。
桑名城跡には九華公園という名前がついているが、
「九華」は、「くわな」の読みにかけて付けられたという事である。(案内板より)
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蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら) |
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で、51の櫓があったと記録されている。
このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、
東海道を行き交う人々が、必ず目にする桑名のシンボルだった。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を
表わす為に、この櫓を象徴的に描いている。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではないが、現在知られているうちで、最も古いとされる
正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれている。
蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で、
七里渡付近の様子を描いた場面である。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に
「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に
広く知られていた事を思わせる。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍の事である。
龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして
広く用いられている。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに
据えられたものと考えられる。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門
乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」
とあって、桑名の名物の1つにこの瓦を挙げている。(案内板より)
いろいろな角度から♪龍が乗ってる(^^)(3枚=2007.5.2撮影)
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三之丸 |
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(上2枚=2007.5.2撮影)
■桑名城三之丸御殿(新城)及び桑名紡績工場跡…
慶長6年(1601)、本多忠勝が桑名城主となり、城下町割と共に、
本格的な城の建設を行った。本丸の北には新城(三之丸)と呼ばれる
一郭が築かれ、城主が住んでいる御殿が設けられた。
度々の火災などで建物は変遷していると思われるが、明治維新以後に
建物は取壊された。明治29年(1896)に新城跡地一帯に桑名紡績工場が建設され、
付近の内郭堀は埋められた。紡績工場は煉瓦造りで建てられた。
桑名紡績は三重紡績・東洋紡績と変わったが昭和20年(1945)の
空襲により破壊された。新城及び紡績工場跡地の一部は、
平成元年に吉之丸コミュニティパークとなった。(案内板より)
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三之丸水門 |
以前は、工事中だったけれど、
とてもきれいになっていた(^^)(3枚=2007.5.2撮影)
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揖斐川 |
三之丸堀 |
桑名城城壁 |
(左)強風の堤防に、赤ちゃんを連れたお母さんが。
風邪を引かないかな?とこっちが心配(^^;)(2007.5.2撮影)
(真ん中)桑名金魚まつりで、堀に可愛い金魚がプカプカ。(2007.5.2撮影)
(右)桑名城の城壁なんだとか!!
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七里の渡し |
江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)との間は、
海路七里(約28km)の舟渡しであった。
桑名宿の舟着場は伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が
天明年間(1781〜89)に建てられた。
舟着場付近は桑名宿の中心であり、舟着場の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、
大塚本陣が並んでいた。舟着場の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があった。
昭和33年(1598)には七里の渡し跡付近は県指定史跡となった。昭和34年(1959)
の伊勢湾台風後の高潮対策工事で、街道と舟着場跡との間に防波堤が設けられた。
(案内板より)
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通り井跡 |
北大手橋 |
桑名は地下水に海水が混じる為、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた
水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に
正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」という。
昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の1つが
発見された。現在は同路面に「井」と書いた石がはめこまれている。
(案内板より)
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